坂の上の雲_(テレビドラマ)
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脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに完成させ、全18回[1]を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することが2007年1月に主要キャスト4人(本木、阿部、香川、菅野)とともに発表された。また当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更された。

2007年11月に茨城県つくばみらい市でクランクイン[2]。以後、日本各地のみならず日露戦争の舞台となった中国ロシアアメリカイギリス等で3年に亘るロケが行われ、2010年9月21日に愛媛県今治沖にてクランクアップした[3]。放送までの経緯については公式サイト、NHKスペシャルドラマガイド[4]および脚注で示した新聞記事[5]などに基づく。
あらすじ

日本が近代国家へと歩み始めた明治時代、伊予国(現在の愛媛県)・松山に3人の男がいた。後に連合艦隊参謀として日本海海戦の勝利に貢献する秋山真之、その兄で日本騎兵の父となる好古俳句短歌の中興の祖となった正岡子規。彼らはただ前のみを見つめ、明治と言う時代の坂を上ってゆく。
第1部
明治維新の年に生まれた秋山真之は、陸軍に入った兄・好古を頼って上京し、親友・正岡升(子規)と共に東京大学予備門に入学する。しかし、学生生活に疑問を感じて予備門を中退。海軍軍人を志す。一方、俳句の革新を志して帝国大学に進んだ子規は結核に冒され、一時帰郷を余儀なくされる。やがて日清戦争が始まると、秋山兄弟と子規は、それぞれの立場からこの戦争に関わることになる。そして、戦争に勝利した大日本帝国の前には極東進出を狙う大国・ロシア帝国の脅威が迫っていた。
第2部
日清戦争後、極東の権益をめぐって、大日本帝国とロシアの関係は悪化。対露戦争を見据えた大日本帝国は、イギリスと日英同盟を結ぶ。英国駐在を経て帰国した真之は、海軍大学校の教官に就任して次代を担う指揮官の育成に励み、一方で子規は俳句の革新を成し遂げるが、壮絶な闘病の末に世を去る。大日本帝国政府は外交交渉による対露関係修復を図る一方で、着々と開戦の準備を進め、真之も連合艦隊参謀に補される。そして、大日本帝国は遂にロシア帝国との断交を決定し、日露戦争宣戦布告をする。連合艦隊はロシア極東艦隊の基地・旅順を攻撃するが、二度にわたる閉塞作戦に失敗し、真之は親友・広瀬武夫を失う。大本営は、作戦を大日本帝国陸軍による旅順要塞の攻略に切り替えた。
第3部
大日本帝国海軍の「旅順艦隊を港から追い出してくれればいい」との意向に対し、乃木希典率いる大日本帝国陸軍は、要塞攻略を目指して正面突撃を繰り返し、多大な犠牲者を出す。遂に乃木は要塞攻略を諦め、作戦目標を二〇三高地の攻略に絞り、親友・児玉源太郎の助けを得てこれを攻略し、旅順艦隊は壊滅する。好古率いる秋山支隊は、各地の戦いでロシアのコサック騎兵を破る活躍を見せ、ロシア側の作戦ミスも重なって、大日本帝国陸軍は辛うじて奉天を制する。一方、対馬海峡でロシアのバルチック艦隊を待ち受ける大日本帝国海軍は、バルチック艦隊の動きを掴めずにいた。津軽海峡方面の艦隊移動決定直前、旗艦・三笠に「敵艦見ユ」の一報が入る。真之は大本営への電文に、一文「本日、天気晴朗ナレドモ波高シ」を添える。
登場人物
主要人物
秋山真之(あきやま さねゆき)
(秋山淳五郎 → 秋山真之)演:本木雅弘(幼少期:小林廉)幼名は淳五郎。周囲からは「淳」(あるいは「淳さん」)と呼ばれる。 煎り豆が好物。少年時代は手のつけられない悪童だった。松山中学を中退して上京し東京大学予備門に入るが、ほどなく中退し海軍兵学校へ入る。卒業後、少尉として日清戦争に従軍するが、自分の判断が元で部下を死なせてしまったことに深い衝撃を受ける。戦後はアメリカに留学後、イギリス駐在武官に転じる。英国駐在を経て帰国後は、海軍大学校の教官に就任し、次代を担う指揮官の育成に励む。日露開戦に際し連合艦隊参謀に就任。「生還の見込みの無い作戦は立てない」を信条に日露戦争に臨み日本海海戦では自ら編み出した「丁字戦法」によってバルチック艦隊を打ち破る。しかし、どんなに良い作戦を立てても敵味方に多くの犠牲者が出てしまう現状に悩み苦しみ、僧侶になりたいと告白する。戦後、子規の墓を訪ねる。その後、好古と釣りに行き「あしは世の中お役に立てたのかのう…」と問いかける。
秋山好古(あきやま よしふる)
(秋山信三郎 → 秋山好古)演:阿部寛(幼少期:田中祥平 / 少年期:染谷将太)真之の兄。幼名は信三郎。周囲からは「信」(あるいは「信さん」)と呼ばれる。少年時代は風呂屋で働きながら本を買って独学で勉強し、学費がかからないからと、大阪の師範学校を経て東京の陸軍士官学校に入る。 陸軍大学校で学ぶ傍ら真之を東京に呼び寄せ、予備門の学費の面倒を見る一方で、彼を厳しく鍛えた。陸大を経てフランスに留学し、騎兵戦術を学び日本騎兵の育成に尽力する。北清事変後は清国駐屯軍司令官となり、天津に滞在。帰国後は騎兵第1旅団長となり日露戦争を迎え、騎兵第1旅団を中核とした「秋山支隊」を率いて遼陽黒溝台奉天に参加し、ロシアのコサック騎兵を大いに破る。戦後、真之と共に釣りに行き「お前はようやった」と慰めるのだった。


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