地車
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大阪天満宮の夏祭には享保17年(1732)に50台、最盛期の安永9年(1778年)には84台の地車(氏地以外の地車を含む)の曳行が記録されているが、天満、及び大坂三郷で地車の台数が減少した理由は定かでない。大塩平八郎の乱で焼失したという記録もある。また太平洋戦争での大阪大空襲で大阪市内中心部では多数の地車が焼失した。戦後新しく移住した住民の氏子意識や地域住民との繋がりの希薄さ、それに都心のドーナツ化現象による定住人口の減少などにより、戦後に地車が復活した例は少ない。しかし現在地車が曳行されていない地域でも、夏祭で地車囃子の奉納演奏がされる神社は少なくない。

堺とならんで環濠自治都市として栄えた平野郷の夏祭りには今でも地車が盛んに曳かれている。幕末の記録では今以上に多数の地車を各町で保有していたと記録(平野に残る壇尻番付)されている。しかし当時の地車は今日のものより簡素であったと考えられる。平野の夏祭でだんじりが曳行される以前は、鳴り物や風流人形を乗せた楽車や、担ぎ物が繰り出されていたという。この様な流れは今でも天神祭の人形を乗せた御迎え船、近畿各地の文楽人形やからくり人形が細工された山車、南河内の地車の上でが演じられているのに通じている。なお平野の杭全神社夏祭の本祭には地車の曳行は行われない。
岸和田詳細は「岸和田だんじり祭」を参照

現在、最も盛大に地車祭りが開催されているのが岸和田である。岸和田市では受け継がれてきた伝統のだんじり祭りが次第にマスコミ等取りあげられるようになり、今では全国的知名度となっている。岸和田市の公式な広報では、岸和田のだんじり祭りの起源を元禄16年(1703年)岸和田藩主岡部長泰が京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願した稲荷祭りにあるとしている。だんじり(だんぢり)の曳行は町衆による神への奉納であり、宮や城が執り行う公式神事に準ずる祭礼である。当初は祭礼に俄かや狂言などの芸事を演じていたようである。その後、城下の町民が祭礼時に登城を許され、長持に車輪を付けた台車に鳴り物を乗せて神楽獅子を舞ったり、奉納相撲が行われたという。やがて小さな軽い引檀尻をこしらえ、その上に人物や風景などを模して作った飾り物を載せて曳行したと伝わる。さらに時が経ち天明5年(1785年)、岸和田城下北町の油屋治兵衛という商人が、和泉郡宇多大津村(現・泉大津市)より大型地車を購入したという記録があるが、この地車は城門を潜ることが出来なかったため、岸和田で改良された地車が製作され独自の地車の様式が発展していく。そうして現在の岸和田型の地車が完成された。なお、岸和田のだんじりの特徴である高速で走行し、停止せずに辻をいっきに回りきる「やり回し」は昭和の時代から行われるようになった。

郊外の集落では過疎や少子化の影響で地車の運行が途絶えた所も少なくないが、岸和田では旧城下町のみならず、周辺の新興住宅地も地車の新調が盛んである。新調時にそれまで保有していた地車が転売されるため、岸和田型の下地車の分布が広くなってきている。
泉大津詳細は「泉大津だんじり祭り」を参照

泉大津における地車の起源は和泉市の泉井上神社(和泉五総社)で行われていた飯山渡御の古例に従って穴師神社でも行われた飯ノ山だんじり(御膳だんじり)が始まりとされている。この渡御は天平14年(742年)、聖武天皇の時代に泉州一帯が旱魃飢饉に陥った際、天皇は橘諸兄に命じて米を和泉五社に供し、余りを窮民に施せと云われたことに始まる。里人達は施された米を台車に乗せ、領民に見せ懸命に雨乞いをしたという。お陰で旱魃は去り、窮地を脱した領民達が、毎年秋の収穫期に感謝を込めて、だんじりに米を盛って祝いあった。当初は唯の台車であったモノが、時を経る内に屋根が付き、注連縄を貼り、榊を飾り、台車に彫刻をし、段々豪華になり、夜中を期して町中をドーンドンドーンと太鼓を叩きながら練り歩き、夜明け前に神社に着き奉納するという、現在も変わらない神事が続いて来た。この渡御は天正年間に廃止されたが、なぜか穴師地区にだけ残り、現在も続けられている。

また、時代とともに地車は形を変えていき濱八町地区では地車同士をぶつけ合うカチアイが行われるようになった。このカチアイは堺の鳳や津久野、兵庫の宝塚などで、警察が介入するほどの激しいぶつけ合いが各地で行われてきたが、現在は濱八町地区にしか残っていない。
地車の型

一般に「だんじり(だんぢり)」といえば、泉州地域(和泉国。大阪府南西部)の岸和田市のだんじりが全国的に知られているが、河内地域(河内国。大阪府東部)、摂津地域(摂津国。大阪府北中部、兵庫県南東部)にもだんじりを保有しているところが数多く存在する。泉州地域では地車の装飾や、曳行自体が重要視されている。それに対して、河内地域ではそれらだけにとどまらず、地車囃子や曳き唄なども重要視されている。また、摂津地域では、大阪市南部・大阪市東部・神戸市・阪神間あたりの場合、地車の装飾、曳行、地車囃子が重要視されている。

地車の型は大きく「下地車(しもだんじり)」「上地車(かみだんじり)」の2つに大別できる。かつて岸和田城下の北町が泉大津より地車を購入したものの、城門を潜ることができなかったために改良を重ねた物が現在の下地車と呼ばれる物である。昭和中期頃まで岸和田型のだんじりはおおむね大津川以南で見られたため、京都から遠い意味で下地車と呼び、対して従来の型のだんじりを上地車と呼ぶようになったと言う。なお、だんじりの重心位置の上下に拠るとする説は俗説である。上地車(上だんじり)、下地車(下だんじり)という呼び方は昭和40年代に地車研究家の間で使われだした言葉で、戦前はその様な区別はされていない。

基本的に大阪・大阪周辺の地車は屋根、柱などの構造物、彫刻には部分的に黒や白、朱に着色されるが、その大部分は木の地のままで塗装や箔はされない。また上地車は下地車に比べて錺金具の装飾が多い。

大まかな分布として、大津川以南の岸和田周辺では、泥(土呂)幕が中段まで占め、見送りに立体的な人形を用いた三次元的ジオラマ形式に細工した下地車が多い。泉大津からにかけては泥幕は腰下までとし、舞台床・見送り四方に擬宝珠勾欄(高欄)を張り巡らせ、見送りは平面的な三枚板を用いた上地車が多くなる。上地車と下地車では屋根の細工も相違し、破風の形態の他、上地車には飾目(鬼板または鬼熊 瓦屋根の鬼瓦に相当)に獅子噛み・武者などの彫り物が取り付けられている。大和川を越えて摂津(大阪市内・北摂)、中河内地区では上地車でも後方の舵梃子がなくなり、向きを変える際には四方に取り付けられた担い棒(かたせ)と呼ばれる丸太、または角材に肩を入れて押しながら旋回する。西宮を超え芦屋から神戸にかけては泥幕下部台木の外側にコマ(車輪)が取り付けられる例が多い。

地車が転売されるとその地域の伝統的な仕様に改修される場合が多いが、担い棒や梶梃子の取付け・取外し、内ゴマから外ゴマ程度の改造はされることはあっても、上地車から下地車、下地車から上地車の様に大改造されることはない。近年泉大津以北でも、新調・中古購入の際、岸和田型の下地車を採用する事例が増えている。特に堺市内では岸和田型の下地車への転換が著しく、堺では最初に鳳地区が典型的な下地車を取り入れた。現在同地区では上・下双方の地車が混在し、上地車でも三枚板のものは残存しない。堺・八田荘地区では既に全ての地車が、津久野地区でも殆どが下地車に置き換わっている。

地車とは呼ばれないものの泉佐野以南(泉南郡田尻町吉見以南)では、二段の屋根を持ちながらもコマがない担ぎだんじり、コマが二輪のやぐらが見られる。
下地車下だんじりが遣り廻しをする際にこの前梃子(突き出た棒状のもの)を操作してだんじりが曲がるきっかけを作る。下だんじりが遣り廻しをする際にこの後梃子とそれに結びつくドンスと呼ばれる綱を使い操舵する。

岸和田型とも呼ばれる。大阪府の泉州地域、なかでも泉南地域にこの型の地車が多い。大屋根を支える柱が筒柱と舞台柱の二重構造になっているのが特徴で、岸和田城内や紀州街道が通る町曲輪・外曲輪の出入口(現在S字と呼ばれている箇所など)に設けられていた城門を潜る必要から、屋根を上げ下げできる細工を柱に施したことに起因する。腰廻りや屋根廻りに奥行きがあり、精緻な彫刻で埋め尽くされている。上地車と比べると大きく重く、曲がり角を走りながら曲がっていく「やりまわし」時の安定度は高い。新調には1億円以上要する。また、前輪から前へ伸びる前梃子や、後部についているやりまわしや方向転換に使用する後梃子も特徴的である。屋根の鬼板にはたいてい氏神社の神紋が施され、鳥衾がついており、ほとんどが3本である。なかには上地車の特徴でもある獅子の彫刻を施した鬼板もある。

大きいものでは高さが4m近いものもあり、重さも5tにもなる。なお、やりまわしは泉州地方のだんじり祭りではどこでも見ることができ、最近では堺などでも上だんじりに代わりこの岸和田型のだんじりが主流となりつつある。

遠く離れた大阪市鶴見区の諸口地区、東大阪市の六郷地区に下地車を持つところが有り、特に六郷地区では泉州地域模倣のやりまわしや鳴り物で曳行される地区も現れている。
上地車

泉州地域以外の地車のほとんどは上地車である。泉州地域でも泉北地域では上地車が見られる。地域によりその形態に特徴があり、住吉型(大佐だんじり)・堺型・大阪型・石川型(仁輪加だんじり)・北河内型・大和型・神戸型・尼崎型・舟型・社殿型・宝塚型というように多種多様な型が存在する。屋根の鬼板にはたいてい獅噛や鬼熊と呼ばれる大きな獅子の彫刻が施されている。獅噛ではなく飾目(しかめ)と呼ばれるものや、鳥衾がついている上地車もあるが1本が多い。重量は比較的軽く、上り坂でも進むことができる。一部地域では地車に発電機をのせて大きな電力を確保し、派手なネオンや照明付きの提灯を多数装備することもある。

下地車にある前梃子は無く、周りを「担い棒」又は「張采棒」と呼ばれる木の梁で囲っているのが特徴。この担い棒があるため、「連合曳き」と呼ばれるパレードの際に、地車を担ぎ上げて「ウィリー」させることができる。これを「差し上げ」と言い、これは上地車を使う、河内地域のほとんどの地域で行われている。そのほか、横に揺らす「横しゃくり」や、梃子の原理を用いて「地車(ダンジリ)」を前後に揺らす「縦しゃくり」を行ったり、前後に走らせたりする。これらの曲芸的な技は南河内、堺市の一部などで行われている。とくに南河内で主に使われている「石川型」は重心が高い独特の形態をしているため、これらの技をやりやすいとされている。そのほかにも近年では差し上げの状態からさらに後輪の片方を持ち上げ「一輪立ち」などを行う地区もある。これらの方法でだんじりを曳き回して演技を披露することを「しこり」又は「でんでん」、「追うた、追うた(おうた、おうた)」などと言う。河内長野市富田林市の一部では、交差点などで地車の後輪を浮かせ、そのままの状態で地車を左右に勢いよく回す「ぶん回し」という高速回転が見物となっている。また、ぶん回しを行う地区の多くは古来から堺とのつながりが深い地域に多く、住吉型(大佐だんじり)や堺型地車を使用している事が多い。なお、これらの行為は地車の彫刻の破損、地車本体の損傷、人身事故等を引き起こすことも少なくない。

泉大津市の大津地区(通称:濱八町)では、互いのだんじりをぶつけ合う「かちあい(かっちゃい)」が名物となっている。兵庫県南東部の一部地域では、だんじりの前輪を上げ、互いの担い棒(片棒)を乗せあい勝負を決める「山合わせ」が見物となっている。

上だんじりに彫り物の一部など下だんじりの特徴を足した折衷型も近年では良く見られる。


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