なお、地租改正に先立って、政府は、1872年(明治5年)に田畑永代売買禁止令を解除して既に禁止が形骸化していた土地の売買(永代売)の合法化を行い、1873年(明治6年)には地所質入書入規則及び動産不動産書入金穀貸借規則を定めて土地を担保とした貸借も合法化した。 地主を納税義務者とすることで、従来の村請負制度が消滅することとなった。また、地主を納税義務者とすることは、彼らに参政権を付与することを意味し、地主階級に対して一定の政治的な力を与えることになった。 後に帝国議会が開かれた時に、当初衆議院の選挙権や貴族院の多額納税者議員の資格が与えられたのは、その多くがこうした地主層であった。 従来の藩が租税として集めた米をまとめて江戸や大坂の蔵屋敷を経由して同地の米問屋に売却するというこれまでの米の流通システムが崩壊して、個々の農民が地元の米商人などに直接米を換金してその代金を地租として納め、地元の米商人が全国市場に米を売却するようになるなど、商業や流通に対する影響も大きかった。 江戸時代の年貢の場合、その年の取れ高に応じて年貢率が決められており、年貢率を決める地域の役人は強い権限を持っていた。そのため、贈収賄などの不正行為が横行していた。地租改正以降は毎年決まった金額の税金を納めるだけなので、悪徳役人の介在する余地は無くなった。 又、商工業者には年貢は課されていなかった。冥加金などはあったが、農民の年貢に比べれば遥かに負担が軽かった。地租改正以降は商工業者にも地券に応じて納めることになり、農民から見れば相対的に税負担は軽くなった。 地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた恩賞や寺社領などに対する免税を否認した。これに先立って施行された解放令によって穢地の指定を外されていたかつての穢多非人の所有地も同様であった。 貨幣経済が浸透していない地方では、地租を現金で納めることは困難を極めた。課税を免れるために、自ら耕してきた田畑の面積を少なく申告する例が見られたが、結果的に1926年(大正15年)に国有財産法の下で行われた荒廃地払い下げなどの機会に、申告していなかった田畑を国から買い戻す形で処理せざるを得なくなった[4]。 入会地も課税対象となったが、税を共同体で支払うことができず国有地に編入され、地域経済に大きな影響を与えることとなった。栃木県栗山村の例では、税の負担を嫌い共同利用してきた森林の大半を国へ返上したものの、1876年(明治9年)になると国有林内の自由伐採が禁止されたため、村人の多くは基幹産業の製炭業の資材や日常生活に必要な薪にいたるまで国有林からの購入を余儀なくされ貧困状態に陥った。栗山村では、1952年(昭和27年)までの長い間、森林は村有地であったとして国に対して訴訟を続けることとなった[5]。 また、欧米の農村社会の仕組みをそのまま日本に想定したために、不都合な例も発生した。例えば、地租の算定における一般的な農家の経営の基準を商業生産的な家族経営による拡大再生産が行われている農家とし、また地主と小作人は自由契約による小作関係によって成立しており小作料の増減は地租の増減に対応することを前提として立法された。これは実際には「生かさぬように殺さぬように」という発想で再生産が抑圧され、地主の地位が強力であった日本の農業社会の実態に合わず、また実際の地租算定においても生産経費を実際よりも低く見積もられたために、高率の税率も重なって地租が生産経費を圧迫し、小作料を跳ね上げる(当時の物価水準では収穫の1/3近くが地価の3%に相当し、更に地主が利潤を上乗せするために、結果的に小作料が上昇した)結果をもたらした。 更に、法令などにおいて、政府自身が実は3%が高率であることを認めている部分がある。条文中に現在の税率は印紙税・物品税などの商工業などからの収入が一定の軌道に乗るまでの暫定的な税率で、将来はそこからの歳入と財政支出の抑制によって地租依存度を減少させて最終的には1%にまで引き下げると説明しているからである(地租改正条例第6条、地租条例で廃止)。だが、現実にはなかなか引き下げられなかった。ところが、後に地租改正条例に代わって制定された地租条例ではこの規定が削除されてしまった。このことが自由民権運動や初期帝国議会における激しい政府批判を招き、また地租に替わる財源として酒造税の相次ぐ増税の一因となった。 地租改正の際に行われた測量結果は地券に記され、この内容は地券台帳にまとめられた。地券は、土地所有を公証し、かつ納税義務者を表示するものとされ、また土地売買の法的手段であるとされたことから、土地の流通および土地金融はすべて地券により行われることとなった。 1885年(明治18年)の登記法成立後は、登記簿が土地所有を公証するものとされた。 また、地券台帳自体も、1884年(明治17年)に創設された土地台帳制度に引き継がれ、1889年(明治22年)に事実上廃止されて、以後地租の収税はこの土地台帳によって行われた。さらに土地台帳は登記簿と一元化されることで、1960年(昭和35年)に廃止された。このとき、土地台帳に記載されていた土地の表示に関する記載(所在、地番、地目、地積)が登記簿の表題部に移記された。したがって、現在の土地登記は、元は地租改正時に作成された地券及び地券台帳にさかのぼるものであるといえる。 しかしながら、地租改正当時の測量技術が未熟であったこと、時間と人員の制約から測量の専門家でない素人が測量にあたったこと、また税の軽減を図るために故意に過小に測量したことなどから、その内容は必ずしも正確なものではなかった。このことが、現在の登記簿においても、登記簿と実際の地形や測量面積が一致しないこと(いわゆる「縄伸び」「縄縮み」)の原因となっている。 現在[いつ?]、正確な登記簿を作るべく地籍調査が全国的に進められている。
地主階級に対する参政権の付与
商業や流通に与える影響
税徴収の透明性と公平性の向上
その他
地券の作成1879年(明治12年)発行の地券 裏面詳細は「地券」を参照
補注^ 福島正夫『地租改正の研究』増訂版100頁、有斐閣
^ 土地の所有者に地券を交付し、地価の3%を地租として金納させる。
^ 『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月20日発行。教科書番号:17教出・歴史762)p 124に「江戸時代の村は数十戸から成り, 耕地を持ち, 年貢を納める本百姓と, 耕地を持たない水呑百姓がいた。」 と記載され、年貢を納める義務があった者は、耕地を持っている本百姓であり、耕地を持っていない水呑百姓に年貢を納める義務がなかったことが書かれている。『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。平成20年1月20日発行。教科書番号:46 帝国 歴史-713)p 102にも、「百姓身分のほとんどは農民で, 農地をもち年貢をおさめる本百姓と, 農地をもたない水呑百姓に分かれていました。」と記載されている。なお、上記の教科書では、両方とも、地租改正のところの記述で、「納税義務者が、耕作者から土地所有者に変更された」旨が書かれていない。それどころか、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月20日発行。教科書番号:17教出・歴史762)p 189では、「また, 小作人はこれまでと同様に, 高い小作料を現物で地主に納めなければならなかった。」と記載され、江戸時代の小作人に、年貢を納める義務がなかったが、小作料を地主に納める義務があったことが書かれている。
^ 娘売る山形の寒村を行く『東京朝日新聞』昭和6年11月12日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p465 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 「国へ帰した村有地 訴願認められ実地検証へ」『日本経済新聞』昭和25年7月12日3面
参考文献
丹羽邦男『地租改正法の起源―開明官僚の形成』(ミネルヴァ書房、1995年(平成7年)) ISBN 4623025101
関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに地所質入書入規則の原文があります。
班田収授法
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登記
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日本の税金
神田孝平
地券
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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