地球の年齢
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テオピロスは169年、この方法によって地球創世は紀元前5529年と計算した[15][16]。また、ユリウス・アフリカヌスは、キリストの誕生を天地創世から5500年後とし、現在の地球はそこから500年続くと計算した[17]
ビュリダンによる推定[ソースを編集]

聖書から地球の年齢を読み解く動きはその後も続いたが、その結果は、地球の年齢を6000年未満とするのがほとんどだった。当時、最後の審判は天地創造からおよそ6000年後に起こると信じられていたので、地球の年齢をそれより古く設定することはできなかったのである[16]

一方で中世では、別の方法から、地球の年齢は6000年より古いのではないかとする考えもあった。たとえば1000年前後に活躍したアラビアの学者アルハゼンは、山地の地層に魚の化石があることから、海で死んだ魚に堆積物がたまってさらにそれが隆起して山になるには非常に長い時間がかかるのではないかと考えた[18]

また、世界は周期的に繰り返されるという考え方も、中世では影響力を持っていた。当時、夜空に見える恒星は3万6000年周期でゆっくりと回転することが知られていた。そのため、地球の現象もこの周期に従うと信じられていたのである(現在、この恒星の動きは地球の歳差運動によるものと説明されている。また、周期はおよそ2万6000年である[19])。また12世紀になると、世界は永遠に続くというアリストテレスの考え方がヨーロッパに伝わるようになった[16]

14世紀の著述家ジャン・ビュリダンは、3万6000年周期説に反対した。海が陸地になったり、あるいは陸地が海になったりといった動きが36,000年周期で起こるなら、たとえば4000年前の地球は海岸線が今とまったく異なっているはずだから、そのような記録は残っていない。さらに、星の周期が3万6000年といっても、それは恒星に限った話であって、惑星を含めたすべての星が同じ場所に位置するのは、おそらく数億年に1度だろう、したがって3万6000年という数字に大きな根拠はないと考えた[20]
宗教改革[ソースを編集]聖書から地球の年齢を読み解いたマルティン・ルター

14世紀後半になると、ヨーロッパでペストが大流行し、2500万人ともいわれる死者を出した[16][21]。また、1378年に起こったローマ教会の大分裂などの出来事も相まって、世界の終わりは近いという思いが広まっていった[22]

さらに16世紀には宗教改革が起こり、旧来の教会に対する批判が高まった。そしてプロテスタントは教会批判のよりどころとすべく、聖書を注意深く読むようになり、批判を受けたカトリックも同様に聖書を読むようになった[16][23]

こうして人々の聖書や歴史への関心が高まった結果、聖書から地球の年齢を求める動きが再びさかんになった。マルティン・ルターは聖書を元に、天地創造の年を紀元前4000年とした[24]。ジェームズ・アッシャーは年代紀を出版し、その中で天地創造の年を紀元前4004年10月23日前夜(土曜日)と記述した[23][25]。この紀元前4004年という数字は欽定訳聖書にも注釈として書き加えられたため、英語圏の人々には広く知れわたるようになった[26]。欽定訳聖書の記述は19世紀まで残った[27]。また、ケンブリッジ大学副総長のジョン・ライトフット(英語版)は天地創造を紀元前3928年として、アダムは午前9時に誕生したと求めた[28]

しかしこのように聖書の日付を文字通りにとらえることには批判もあった。これは、インドや中国では自分たちより古い歴史を持っているがノアの方舟での洪水などについて記録されていないということが、実際にそこに出向いた宣教師たちによって伝えられたことも原因としてあげられる[29]。また、神の時間を人間の時間と一緒に扱ってはならないとの主張も見られた。たとえばイマヌエル・カントは1754年、「特定の時間内に経過した人間の一連の世代を、神の偉大なる創造物の年齢を測る尺度として用いようとするのは、最大の過ちである」と記している[30]
近代科学の誕生[ソースを編集]

一方で、地球の成り立ちについて聖書にとらわれない形で考察する動きもあらわれてきた。その嚆矢は1644年に出版されたルネ・デカルトの『哲学原理(英語版)』とされている[29]。その後、ロバート・フックゴットフリート・ライプニッツも化石の研究などから地球の形成を考えたが、地球の年齢について記したのはフランスの外交官ブノワ・ド・マイエだった[31]

ド・マイエは、自らの死後の1748年に匿名で出された書『テリアメド』(Telliamed)で自らの考えを示している(本のタイトルはド・マイエ(de Maillet)を逆から読んだもの)。それは、昔の地球は海で覆われていて、その水が徐々に減少していったというものである。そしてド・マイエは、水が減少するには50万年の時間を要すると記し[32][33]、地球の年齢を20億年と推定した[34]。しかしド・マイエの主張は受け入れられなかった。それは、同書には、男女は雄の人魚と雌の人魚が姿を変えたものだ、などといった荒唐無稽な主張も書かれていたことも原因と考えられている[35]

また、別の発想として、生まれたばかりの地球を熱い火の玉のような存在と仮定して、それが徐々に冷えることで現在の地球になったと考えることもできる。アイザック・ニュートンは1687年の著書『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』で、地球と同じ大きさの鉄球が冷却されるのには5万年以上かかると記している[36]ビュフォン伯

フランスの博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは、このニュートンの記述を実験によって確かめた。ビュフォンは、太陽に彗星が衝突して、その時に飛び出した物質が地球になったという考えを持っていた[37]。そこで、実際に鉄球を熱して冷却時間を計り、地球の大きさの鉄球が現在の温度まで下がるには9万6670年と132日かかるという結果を得た[38]。しかし地球は鉄球ではないため、次に「ガラス、砂岩、硬石灰石、大理石および鉄分を含んだ物質」を考えた。さらに、地球は冷えている間にも太陽や月からの熱の影響を受けるため、それも考慮に入れなければならない。こうしてビュフォンは150ページにわたる計算の結果、地球の年齢を7万4832年と導き出した[39]

この数値は1778年に出版された『自然の諸時期』に記されている。ただしビュフォンは、この数値では海が広がり堆積層が形成されるには短すぎると考えており、原稿には300万年、1000万年といった数値も書かれている[40]。結局、このような大きな数値は我々には理解することができないとして、「われわれの知性の限界力に合わせるために[41]」出版物としてはこうした数値は記載しなかった。しかし、実際に記載された7万数千年という数字も、地球の年齢は6000年という考えが一般的だった当時の神学者にとっては、受け入れがたいものだった[42]

ビュフォンの研究はジョゼフ・フーリエによって発展された。フーリエは熱伝導方程式を作り、地球が冷えるまでの年月を計算しようとした[43]。フーリエによる計算結果は残されていないが、実際にフーリエの式から地球の年齢を求めると1億年という数字が得られる[44]
地質学の発展[ソースを編集]地質学への貢献が大きいジェームズ・ハットン

18世紀後半、地質学の世界ではアブラハム・ゴットロープ・ウェルナー水成説が知られていた。これは、地球はかつて大洋に覆われていて、その時に海底で今の地形が形づくられ、やがて水が引いて大陸となったという説である[45]

ジェームズ・ハットンは1785年にエディンバラ王立協会で発表した論文でこの水成説を否定するとともに、自説を披露した。それは、地球内部の熱によって地面が押し上げられ、それが海面から上に出て陸地となったというもので、火成説と呼ばれている[46]


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