地球の年齢
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そしてプロテスタントは教会批判のよりどころとすべく、聖書を注意深く読むようになり、批判を受けたカトリックも同様に聖書を読むようになった[16][23]

こうして人々の聖書や歴史への関心が高まった結果、聖書から地球の年齢を求める動きが再びさかんになった。マルティン・ルターは聖書を元に、天地創造の年を紀元前4000年とした[24]。ジェームズ・アッシャーは年代紀を出版し、その中で天地創造の年を紀元前4004年10月23日前夜(土曜日)と記述した[23][25]。この紀元前4004年という数字は欽定訳聖書にも注釈として書き加えられたため、英語圏の人々には広く知れわたるようになった[26]。欽定訳聖書の記述は19世紀まで残った[27]。また、ケンブリッジ大学副総長のジョン・ライトフット(英語版)は天地創造を紀元前3928年として、アダムは午前9時に誕生したと求めた[28]

しかしこのように聖書の日付を文字通りにとらえることには批判もあった。これは、インドや中国では自分たちより古い歴史を持っているがノアの方舟での洪水などについて記録されていないということが、実際にそこに出向いた宣教師たちによって伝えられたことも原因としてあげられる[29]。また、神の時間を人間の時間と一緒に扱ってはならないとの主張も見られた。たとえばイマヌエル・カントは1754年、「特定の時間内に経過した人間の一連の世代を、神の偉大なる創造物の年齢を測る尺度として用いようとするのは、最大の過ちである」と記している[30]
近代科学の誕生[ソースを編集]

一方で、地球の成り立ちについて聖書にとらわれない形で考察する動きもあらわれてきた。その嚆矢は1644年に出版されたルネ・デカルトの『哲学原理(英語版)』とされている[29]。その後、ロバート・フックゴットフリート・ライプニッツも化石の研究などから地球の形成を考えたが、地球の年齢について記したのはフランスの外交官ブノワ・ド・マイエだった[31]

ド・マイエは、自らの死後の1748年に匿名で出された書『テリアメド』(Telliamed)で自らの考えを示している(本のタイトルはド・マイエ(de Maillet)を逆から読んだもの)。それは、昔の地球は海で覆われていて、その水が徐々に減少していったというものである。そしてド・マイエは、水が減少するには50万年の時間を要すると記し[32][33]、地球の年齢を20億年と推定した[34]。しかしド・マイエの主張は受け入れられなかった。それは、同書には、男女は雄の人魚と雌の人魚が姿を変えたものだ、などといった荒唐無稽な主張も書かれていたことも原因と考えられている[35]

また、別の発想として、生まれたばかりの地球を熱い火の玉のような存在と仮定して、それが徐々に冷えることで現在の地球になったと考えることもできる。アイザック・ニュートンは1687年の著書『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』で、地球と同じ大きさの鉄球が冷却されるのには5万年以上かかると記している[36]ビュフォン伯

フランスの博物学者ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは、このニュートンの記述を実験によって確かめた。ビュフォンは、太陽に彗星が衝突して、その時に飛び出した物質が地球になったという考えを持っていた[37]。そこで、実際に鉄球を熱して冷却時間を計り、地球の大きさの鉄球が現在の温度まで下がるには9万6670年と132日かかるという結果を得た[38]。しかし地球は鉄球ではないため、次に「ガラス、砂岩、硬石灰石、大理石および鉄分を含んだ物質」を考えた。さらに、地球は冷えている間にも太陽や月からの熱の影響を受けるため、それも考慮に入れなければならない。こうしてビュフォンは150ページにわたる計算の結果、地球の年齢を7万4832年と導き出した[39]

この数値は1778年に出版された『自然の諸時期』に記されている。ただしビュフォンは、この数値では海が広がり堆積層が形成されるには短すぎると考えており、原稿には300万年、1000万年といった数値も書かれている[40]。結局、このような大きな数値は我々には理解することができないとして、「われわれの知性の限界力に合わせるために[41]」出版物としてはこうした数値は記載しなかった。しかし、実際に記載された7万数千年という数字も、地球の年齢は6000年という考えが一般的だった当時の神学者にとっては、受け入れがたいものだった[42]

ビュフォンの研究はジョゼフ・フーリエによって発展された。フーリエは熱伝導方程式を作り、地球が冷えるまでの年月を計算しようとした[43]。フーリエによる計算結果は残されていないが、実際にフーリエの式から地球の年齢を求めると1億年という数字が得られる[44]
地質学の発展[ソースを編集]地質学への貢献が大きいジェームズ・ハットン

18世紀後半、地質学の世界ではアブラハム・ゴットロープ・ウェルナー水成説が知られていた。これは、地球はかつて大洋に覆われていて、その時に海底で今の地形が形づくられ、やがて水が引いて大陸となったという説である[45]

ジェームズ・ハットンは1785年にエディンバラ王立協会で発表した論文でこの水成説を否定するとともに、自説を披露した。それは、地球内部の熱によって地面が押し上げられ、それが海面から上に出て陸地となったというもので、火成説と呼ばれている[46]花崗岩は水中で堆積によってできたのではなく、マグマが冷えて固まったものである。そして陸地はやがて浸食作用を受ける。ハットンはここで時間について着目した。現在のような地層が見られるということは、地球は現在まで浸食と隆起を何度も繰り返してきたということである。それだけの作用が起きる年月というのは非常に長く、人間の観察できる範囲を超えている。「したがって、人間が観察できるかぎりにおいて、世界に始まりはなく、終わりもない」[47]

ハットンの説は、地球の年齢を6000年とする、当時主流だった考えとは明らかに相反するものであった[48]。ハットンはその後、シッカーポイントの観測により自説が正しいことを確かめ[49]、1795年には自らの理論を著書『地球の理論』としてまとめたが、この理論はハットン存命中には広く伝わらなかった。

しかし1802年、同僚のジョン・プレイフェアはハットンの理論をまとめた『ハットンの地球理論の解説』を出版し、ジェームズ・ホール(英語版)は1804年から1805年にかけて、実験によってハットンの理論の正しさを証明した[50]。そして、チャールズ・ライエルは実地での観測などによりハットンと同じ考えを抱くに至り、1830年、著書『地質学原理(英語版)』を出版した。同書では、地球の年齢は測り知れないほど古いということが記されている。ライエルはさらに、地球は定常状態にあり、現在地球で起きている火山活動や堆積、浸食といった現象は、過去においても同じ内容、同じ規模で起こっていたと主張した[51]。これは後に斉一説と呼ばれるようになる[52]。『地質学原理』は当時のベストセラーになり、後の時代にも影響を及ぼすようになる[53][54]

一方でジョルジュ・キュヴィエは、過去の地球には数度の天変地異が起こったとする天変地異説を唱えた。この説によれば、天変地異のたびに生物のほとんどが絶滅し、その化石が異なる地層の中に現れる。そしてノアの方舟に描かれた天変地異が最後の天変地異である[55]。天変地異説は、6000年以上前に生命が存在していたことを説明でき、しかも聖書の記述とは矛盾しないため、一時期は支持する人が多かった[56]。キュヴィエの弟子らはこの考えを発展させ、天変地異により生命は絶滅し、その都度天地開闢により生命が創造されたと考えた。しかし、斉一説の登場とともに天変地異説は支持を失った[57]


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