地球の年齢
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ビュフォンは、太陽に彗星が衝突して、その時に飛び出した物質が地球になったという考えを持っていた[37]。そこで、実際に鉄球を熱して冷却時間を計り、地球の大きさの鉄球が現在の温度まで下がるには9万6670年と132日かかるという結果を得た[38]。しかし地球は鉄球ではないため、次に「ガラス、砂岩、硬石灰石、大理石および鉄分を含んだ物質」を考えた。さらに、地球は冷えている間にも太陽や月からの熱の影響を受けるため、それも考慮に入れなければならない。こうしてビュフォンは150ページにわたる計算の結果、地球の年齢を7万4832年と導き出した[39]

この数値は1778年に出版された『自然の諸時期』に記されている。ただしビュフォンは、この数値では海が広がり堆積層が形成されるには短すぎると考えており、原稿には300万年、1000万年といった数値も書かれている[40]。結局、このような大きな数値は我々には理解することができないとして、「われわれの知性の限界力に合わせるために[41]」出版物としてはこうした数値は記載しなかった。しかし、実際に記載された7万数千年という数字も、地球の年齢は6000年という考えが一般的だった当時の神学者にとっては、受け入れがたいものだった[42]

ビュフォンの研究はジョゼフ・フーリエによって発展された。フーリエは熱伝導方程式を作り、地球が冷えるまでの年月を計算しようとした[43]。フーリエによる計算結果は残されていないが、実際にフーリエの式から地球の年齢を求めると1億年という数字が得られる[44]
地質学の発展[ソースを編集]地質学への貢献が大きいジェームズ・ハットン

18世紀後半、地質学の世界ではアブラハム・ゴットロープ・ウェルナー水成説が知られていた。これは、地球はかつて大洋に覆われていて、その時に海底で今の地形が形づくられ、やがて水が引いて大陸となったという説である[45]

ジェームズ・ハットンは1785年にエディンバラ王立協会で発表した論文でこの水成説を否定するとともに、自説を披露した。それは、地球内部の熱によって地面が押し上げられ、それが海面から上に出て陸地となったというもので、火成説と呼ばれている[46]花崗岩は水中で堆積によってできたのではなく、マグマが冷えて固まったものである。そして陸地はやがて浸食作用を受ける。ハットンはここで時間について着目した。現在のような地層が見られるということは、地球は現在まで浸食と隆起を何度も繰り返してきたということである。それだけの作用が起きる年月というのは非常に長く、人間の観察できる範囲を超えている。「したがって、人間が観察できるかぎりにおいて、世界に始まりはなく、終わりもない」[47]

ハットンの説は、地球の年齢を6000年とする、当時主流だった考えとは明らかに相反するものであった[48]。ハットンはその後、シッカーポイントの観測により自説が正しいことを確かめ[49]、1795年には自らの理論を著書『地球の理論』としてまとめたが、この理論はハットン存命中には広く伝わらなかった。

しかし1802年、同僚のジョン・プレイフェアはハットンの理論をまとめた『ハットンの地球理論の解説』を出版し、ジェームズ・ホール(英語版)は1804年から1805年にかけて、実験によってハットンの理論の正しさを証明した[50]。そして、チャールズ・ライエルは実地での観測などによりハットンと同じ考えを抱くに至り、1830年、著書『地質学原理(英語版)』を出版した。同書では、地球の年齢は測り知れないほど古いということが記されている。ライエルはさらに、地球は定常状態にあり、現在地球で起きている火山活動や堆積、浸食といった現象は、過去においても同じ内容、同じ規模で起こっていたと主張した[51]。これは後に斉一説と呼ばれるようになる[52]。『地質学原理』は当時のベストセラーになり、後の時代にも影響を及ぼすようになる[53][54]

一方でジョルジュ・キュヴィエは、過去の地球には数度の天変地異が起こったとする天変地異説を唱えた。この説によれば、天変地異のたびに生物のほとんどが絶滅し、その化石が異なる地層の中に現れる。そしてノアの方舟に描かれた天変地異が最後の天変地異である[55]。天変地異説は、6000年以上前に生命が存在していたことを説明でき、しかも聖書の記述とは矛盾しないため、一時期は支持する人が多かった[56]。キュヴィエの弟子らはこの考えを発展させ、天変地異により生命は絶滅し、その都度天地開闢により生命が創造されたと考えた。しかし、斉一説の登場とともに天変地異説は支持を失った[57]
ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)の理論[ソースを編集]物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)

『地質学原理』が広がることで、地質学者の間ではハットンやライエルの考え方が一般的になってきた[58]。しかし物理学者の中には、地質学者の主張に異を唱えるものも現れた[59]。その代表がウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)である。

トムソンは1862年の論文で、斉一説に次のように反論した。原初の地球は今よりももっと熱い星だった。したがって地球の火山活動なども昔の方が活発であるはずで、現在と同じ活動が過去にも同じ規模で繰り返されたとするのは不適切である[60][61]。ライエルは『地質学原理』において、地球内部では化学反応によって熱が生み出され、その熱による熱電流によって化合物が分解され、それがまた化学反応して熱に変わるという工程が繰り返されると主張しているが、それは永久運動であって熱力学の基本法則に反する[62]

そしてトムソンは同論文で、具体的に地球の年齢を計算した。方法は、地球が冷却されるまでの時間を求めるというものである。この計算には、地面の深さに応じた温度の変化率、岩石の熱伝導率、地球内部の初期温度の3つの値が必要になる。このうち温度の変化率は、平均で50フィート(27.4メートル)深くなると1℃上昇することが知られていた。熱伝導率は自分で測定して求めた。残りの初期温度は直接求めることができない。そこでトムソンは、地球が固体化した時点では、地球の温度はどこでも同じであると仮定した。その仮定のもとでは、地球内部の初期温度は岩石の融点と同じになる[63][64]。こうして3つの値を手に入れたトムソンは、計算の結果、地球の年齢を9800万年、不確定要素を考慮に入れると2000万年から4億年の間と見積もった[65]

さらにトムソンは、太陽の年齢も計算した。トムソンは太陽と地球は同時期に誕生したと考えていたため、太陽の年齢は地球の年齢を知る上で参考になる。その太陽だが、一体何をエネルギーとして輝き続けているか、当時は明らかではなかった。化学エネルギーが源ならば、太陽は数万年で燃え尽きてしまう[66]。そこで、隕石が太陽に衝突することでエネルギーが発生するという説が出され、トムソンも一時期それを検討したが、これによって得られるエネルギー量も十分ではないことが分かった[67][68]。次にトムソンが考えたのが、太陽の重力エネルギーである。これは、太陽を構成している物質は太陽のまわりを雲のように覆っていて、それが重力によって太陽の中心に向かって落下してゆく、その運動エネルギーが熱に変わるというものである[69]。つまり太陽は収縮しながら燃焼を続けているということである[70]。この説はもともとヘルムホルツによって出されたものだが、トムソンは実際に熱量を計算し、そこから太陽の年齢を2000万年と見積もった[71][72]。データの誤差も考慮に入れたうえで、トムソンは1862年の論文で次のように記した。したがって、全体的に見て、太陽は地球を1億年以上は照らしていないというのが極めて濃厚であり、5億年以上は照らしていないというのはほぼ確実なようだ。未来についていえば偉大なる創造の宝庫である太陽に、われわれにとって今のところ未知のエネルギー源が用意されないかぎり、地球の住人がこの先、生命にとって欠かせない光や熱を何億年も享受しつづけられないことは、同じくらい確実に言えるであろう。[73]

こうしてトムソンは、地球と太陽の年齢について、別の方法から、おおよそ似た値を導き出した。そのうえトムソンは、潮の満ち引きによる摩擦で地球の自転速度が遅れることに着目し、ここからも地球の年齢を求めようとしたが、結果的にこの方法では正確な値を求めることは難しいことが分かった[74]

こうしたトムソンの研究は、地質学者に大きな反響を与えた。トムソンの主張に賛同する学者も多かった。当時トムソンは物理学者としての名声があり、主張の内容も、当時の物理学では反論するのが難しかったからである[61]。ジョン・フィリップスは独自に地球の年齢を9800万年と導いていたためトムソンに賛同した[75]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef