二役を演じた原田美枝子は、出演オファーを受けたのが19歳で[18]、「台本を読んで出来ない。女の情念とか、女でなければいけない部分はまだ自分にはムリだろうと思い、考えさせてほしい」と返事したが[18]、出来ないのを演ってみようというタチで[18]、かねてから尊敬する神代監督作品初出演でもあり出演を決めた[19]。また、1970年代の中期にかけて美少女アイドルとして絶大な人気を博した栗田ひろみがエキセントリックな娘を演じ、芸能界引退前の最後の出演映画となった[20][21]。 東映作品では珍しく[16]、公開日が決まらないまま、1978年5月連休明けより本読み[16]。ここからロケハン、撮影など完成まで約7ヵ月[16]。1978年5月18日から数日、大分県玖珠町、由布市、宮崎県高千穂町などでロケハン[16]。実際にロケが行われたかは分からない。撮影所試写は1978年11月29日[16]。 原田美枝子から赤ん坊が生まれるシーンはロケで雪の中でやる筈だったが、遅れて1978年6月になりステージ一杯のセットを作って撮影した[18]。 原田美枝子は当時の若手女優では珍しくプロデューサー業に意欲を燃やした人で[22][23]、「俳優は宣伝の表に出ないというイメージがあり、私の中にもそういう考えはありましたが、この映画に限らず、若い人、同世代の人たちにもっと邦画を見てもらいたい。洋画をファッション的に見る当時の若い世代の人たち、邦画ファンに巻き込みたい」と[23]、本作品では自ら宣伝担当プロデューサーに就任し[18][22][23]、東映本社宣伝部に専用のデスクまで置いて東映の宣伝マンと一緒に知恵を絞った[22]。「角川方式のように大宣伝費をブチ込むのは抵抗がある。そんなにお金があるなら現場(撮影)で使いたい」とちょっぴり角川批判をした[23]。実行されたかは不明であるが、試写会を開いて若い人たちとティーチインをしたい、〈地獄祭り〉と称し、テアトル東京を一時的にテアトル地獄とする、同館所在地・銀座1丁目を一時的に地獄1丁目と改称する、地下鉄と交渉し『地獄行き』キップを発行するなどユニークなアイデアを出した[23]。1979年6月2日からテアトル東京で先行封切され[23]、原田がキャンペーンに登場し『地獄・豆辞典』を配った[24]。 1978年9月に完成し[23]、原田のヌードだけは話題を呼んでいたが[25][23]、東映の客筋と合わないと判断され[25]、本番線ではなく洋画系(東映洋画)でロードショーした方がよいとなり[25]、宣伝効果を上げるまで、1979年のカンヌ国際映画祭に出品して、何らかの賞に掛かれば宣伝費も安くつくと公開を伸ばした[23][25][26]。1979年のカンヌ映画祭には日本映画として『純』『エーゲ海に捧ぐ』『ザ・ウーマン 併映『餌食 『キネマ旬報』は「作品そのものが不出来で、原田美枝子の演技も空転した」などと評している[19]。 高橋克彦は「数ある地獄物のなかでベスト3に入る出来栄え。後半がゲテモノと看做され評価は低いけれど、中川信夫監督の『地獄』に負けず劣らずで、神代辰巳監督の拵えた『地獄』は怪談映画としても超一流の作品だと思います。怖いですよ、これは」などと評している[29]。
撮影
宣伝
興行
評価
同時上映
『餌食』
監督:若松孝二
主演:内田裕也
製作:獅子プロ
ビデオ発売
東映ビデオより、税抜き12,390円で発売されていた[30]。
脚注^ a b c d e 「新作情報 東映が『地獄』に神代監督を起用」『キネマ旬報』1978年1月下旬号、199頁。
^ a b 「邦画新作情報」『キネマ旬報』1978年6月上旬号、172頁。
^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、327頁。