エクスプロイテーション映画で多く見られる常套手段であり、事実であったとしても何ら驚くべきことではない。しかも、この説は、キャメロンによって先行して書かれていたという“MIA救出”というプロットも決してオリジナルではなく、更に先行作品が存在するという点を大きく見落としている。キャメロンが脚本を執筆したとする年と同年に公開されていた、テッド・コッチェフ監督、ジョン・ミリアス製作による ジーン・ハックマン主演の『地獄の7人』(1983年)である。さらにその前年、J.C.ポロックによるMIA救出を題材にした小説『ミッションMIA』[2]が存在する。 チャック・ノリスの自叙伝によれば、ベトナム戦争で戦死した弟ウィーランドに捧げる映画を作りたいと以前から切望していた彼のもとに、ランス・フールによって『地獄のヒーロー2』の脚本が持ち込まれた。悲壮を極めたベトナム戦争によって行方不明になったままの2000人もの米軍兵士のためにも、ぜひこの映画を作りたいとの意で、ランスとチャックの2人は熱心に映画会社を口説いて回ったが、ハリウッドの誰もがそんな脚本に関心を示さなかった。 1980年代初頭の時代背景と言えば、イランで1年以上も拘束されているアメリカ市民のニュースがトップ扱いであった。その後、ロナルド・レーガンの大統領就任により拘束されていたアメリカ市民が解放されたことで、国民の気分は高揚していたにもかかわらず、アメリカ兵士が外国で囚われるような映画はもう誰も観たくないであろう。それが当時のハリウッドの主流の考え方であったという。 チャックは諦めずに映画会社を回り、この映画はベトナムで戦った兵士を讃えるだけではなく、興行的にも大成功間違いなしだと説得した。ようやくキャノン・フィルムが映画製作に同意した。 チャックは完成した映画の反響を確認するため、ハリウッドの試写会ではなく、一般の映画館の公開初日に『地獄のヒーロー』を観に行った。いつものように彼は、プロの評論家の意見よりも観客の反応が知りたかったからである。ブラドックがクライマックスで、いまだに米兵たちがベトナムで捕らえられていることを証明した時、観客全員が総立ちで拍手喝采した。その歓声を聞いてチャックは、自分たちがそれまでに映画に注いだ努力が報われるような思いがした。 『地獄のヒーロー』は、公開1週目で600万ドルの興行成績を叩き出し、当時としては記録的な大ヒット作となった。また、チャックのそれまでの主演作と違い、好意的な映画評が多数書かれた。しかしチャックにとっての最高の賛辞は、ベトナム帰還兵の父を持つある女性の言葉だった。「父が泣いたのを生まれて初めて見ました」 チャックは、ベトナムで死んだ弟ウィーランドと、その他数多くのベトナム戦死者の霊を慰めることができたのなら本当に嬉しいと思った。と綴っている。 『メイキング・オブ・ブレードランナー』(1997年、ポール・M. サモン著)に記載されているM・エメット・ウォルシュのインタビューによれば、メナハム・ゴーランの経済性を優先する余りの早撮りの指示に対し揶揄するコメントがある。 『ブレードランナー』は、リドリー・スコットの撮影への拘りから、4ヵ月も撮影が超過、予算が500万ドルをもオーバーしたことで完成保証人の現場介入を招き、シークエンスの簡素化や部分によっては丸ごと削ることさえ余儀なくされたという。その混乱に対しエメットは次のように述べている。「今でも友人には、『ブレードランナー』の仕事はまるでキャノンの仕事をしているようだったと話すんだ」「(キャノンを)経営していたのは、メナハム・ゴーランとヨーラン・グローバスという2人組だったが、予算が厳しくなると脚本のページを破り捨てて、『次のページを撮ろう!』と叫ぶんだ」 本作を皮切りに多くのアクション映画に主演し、1980年代のコマンドヒーローブームを、シルヴェスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガーと共に牽引した。そして1990年代に世界的なロングランヒットとなったトップショー『炎のテキサス・レンジャー』(1993年 - 2001年)の主演、そして、2000年代以降のポップカルチャーのカルトアイコンとしての不動たる地位の原点となった。
チャック・ノリスの自叙伝による述懐
M・エメット・ウォルシュの証言
ブレイク作となったスタッフ・キャストのその後
チャック・ノリス
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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