地方病_(日本住血吸虫症)
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^ 『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林 (2000) pp.73-74
^ 執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.10
^ 酒精(エチルアルコール)に浸けられ、山梨県立病院に保存された。当時、ホルマリンは未だになかった。小林 (1998) p.39
^ 三神内科は2017年現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神医院である。2017年現在の同医院院長三神柏は三神三朗の孫に当たる。
^ 三神脳外科内科医院の中庭に、『明治37年7月30日此の地に於て初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と書かれた銅版がはめ込まれた石碑が建立されている。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32
^ 官報6337号に記載された桂田の報告によれば、2回目の猫の解剖日時は7月25日となっているが、ここでは発見地にある石碑碑文に記載された7月30日を発見日とした。
^ カットー医師をドイツ人とする文献も存在するが、当時のシンガポールはイギリスの植民地であり、カットーはシンガポールに検疫官として赴任していた。小林 (1998) p.69。
^ 十郎川の通称「深マチ」という場所(現:山梨英和大学南方、国道140号横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.167
^ 発見した水路の所在地を、酒井地区の北隣に位置する現鳥栖市曽根崎町とする資料(NPO法人宮入慶之助記念館しおり)もある。
^ ミヤイリガイの学名は、Katayama(後にOncomelania)nosophora。 ⇒"カタヤマガイ(別名ミヤイリガイ)"日本のレッドデータ検索システム 2014年4月13日閲覧
^ 山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.56、より一部改変作成。
^ 東山梨郡:岡部村、(春日居村は検診未了)。
^ 西山梨郡:甲運村、住吉村、朝井村、山城村、里垣村、国里村、清田村、相川村、千塚村。
^ 東八代郡:富士見村、石和町、上曽根村、下曽根村、豊富村。
^ 西八代郡:上野村。
^ 中巨摩郡:貢川村、西条村、国母村、大鎌田村、二川村、稲積村、三町村、常永村、小井川村、花輪村、忍村、池田村、玉幡村、今諏訪村、田之岡村、御影村、百田村、大井村、五明村、藤田村、鏡中条村、南湖村、(松島村、竜王村は検診未了)。
^ 北巨摩郡:登美村、塩崎村、竜岡村、更科村、神山村、大草村、旭村。
^ 最後に日本住血吸虫症の発症が確認されたのは韮崎市内であった。林 (2000) p.80
^ 山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、p.51、p.105、より一部改変作成。
^ 三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) pp.174-177
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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