地方病_(日本住血吸虫症)
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^ 山梨県では1986年以降、皮内反応をELISA法に切り替え、虫卵抗原に対するELISA陽性者に対しMIFC法による検便を実施してきたが、保卵者は発見されなかった。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005) pp.34-35
^ 国の天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に2002年12月に建立された。その後2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。石碑の下部には医院の屋根に使用されていたが、終息に要した年数と同じ115枚並べられている
^ 2月13日の答申をもって、翌週2月19日に終息宣言が出された。
^ 日本住血吸虫を感染させたマウス-Youtube (2012年12月24日閲覧)ホルマリン標本容器に、感染日2011年4月25日(40?45隻)、標本作成日2011年9月3日 (18W) の文字が確認できる。
^ 臼井という地名は、2016年現在もリバーサイドタウンの近辺に臼井阿原として残っている。
^ 筑後大堰管理所は、筑後大堰によって湿地帯がなくなりミヤイリガイ撲滅をもたらしたとしている[262]。その一方で、筑後大堰は日本住血吸虫症の拡大を引き起こすとして建設差止訴訟を起こした市民もいる。大堰から他地域へ導水されることを挙げ、感染拡大に繋がることを差止理由の一つとしたのである[263]
^ 臨床医でもあった福井県選出の日本社会党所属議員らによって組織された[271]
^ (英語) ⇒Jaime Galvez-Tan 2016年5月4日閲覧
^ 肩書、呼称は 林 (2000) p.7に従った。この人物は「ハイメ・Z・ガルベス・タン」[284]、「ハイメ・ガルヴェス・タン」[285]と表記されることもある。また、一般にはフィリピンの厚生省は保健省、大臣は長官とも呼ばれる。
^ 住血吸虫症による病死は死因が多様であるが、death.1番号として「住血吸虫症状」で一括りにされるケースが多いため、たとえば、肝臓や腎不全と膀胱癌のような隠された病理の推定をすることは困難である。したがって死因見積もりは、年間20,000から200,000人の間で大きく異なる。

中富町について^ 中富町は富士川中流に位置しており、甲府盆地から離れている。しかし1954年(昭和29年)、ミヤイリガイが同町内の切石・八日市場・飯富の3地区で生息しているのが発見され、罹患者も発生した。これは大雨や台風など洪水により上流部の甲府盆地からミヤイリガイが流され繁殖してしまったものと考えられた。同様に1961年(昭和36年)には県境を越えた静岡県の富士川町でも16名の日本住血吸虫症患者が発生し、町内の溝渠にミヤイリガイの生息が確認された。これも上流部の甲府盆地や中富町のミヤイリガイが富士川を流れてきたものと考えられている。泉 (1979) pp.76-79

引用
死体解剖御願
^ 泉 (1979) pp.73-74での現代訳から一部改変引用。死体解剖御願、原文、以下引用。山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社、pp.118-119より。死体解剖御願
西山梨郡清田村第弐百拾六番
戸主 杉山源吉養母
杉山なか
当五拾四年
私儀太平ナル御代ニ生存スルコト已ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病ニ罹り悩ムコト甚シ、依ツテ早速ニ某医ヲ迎ヘ診ヲ乞ヒタルニ病名サヘ指示セザルヲ以テ其后又二三某医ヲ乞ヒタルニ是又前同様莫トシテ一ツモソノ要領ヲ得ズ、遂ニ荏苒時日ヲ経過シ同年十一月ニ至ルニ病勢ハ漸々増進スルノミニテ毫モ減退セザル故最后諦メノ為同月下旬貴院ノ温厚篤実ナル御診察ヲ仰ギ充分ナル御鑑定ヲ得タルニ豈図ンヤ当地ノ近傍有名ナル地方病ニシテ未ダ病原ノ発見セダル最モ恐ルベキ疾病ナリ、是迄数多ノ該患者発見スルモ病原不明ノ為十中八、九ハ鬼籍ニ転ヅルノ不幸ニ接シタリト、妾事モ発病臥床最早殆ト一ケ年間ノ敷ニ及ブモ素ヨリ病原不明不治ノ病ナルヲ以テ如何ニ先生ノ百方御尽力且ツ御治療ヲ受クルモ日々衰弱ヲ増進スルノミニシテ到底恢復ノ見込無キハ勿論不日死亡ノ不幸ニ陥ルハ目前ナルヲ以テ、死后ハ是共貴院ニ於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病ニ罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠ニ妾ノ寸志ヲ遺保セランコトヲ懇願至候。依ツテ本日ヲ以ツテ戸主夫?ニ親属〔ママ〕立会連署ノ上御願申上候也。明治三十年五月三十日
右戸主 杉 山 源 吉
右夫 杉 山 武 七
右本人 杉 山 な か
右親属(原文ママ) 向 山 太 平
右親属(原文ママ) 戸 沢 近 太 郎 ? 杉山なか 『死体解剖御願』 1897年5月30日
注釈:この文中にある妾とは日本語の一人称代名詞#妾(わらわ)の意味である。

俺は地方病博士だ
^ 1917年(大正6年)発行の小冊子『俺は地方病博士だ』でも、地方病は人口の減少や発育不良を招く病であると説いており、だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。
だからこんな病氣の蟲は早く退治して仕舞ねばならぬ。 ? 『俺は地方病博士だ』pp.4-5としていた。
^ 昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。
何でも病蟲の居る水の中へ三四十分間入って居ると、病蟲はチャンと皮膚を喰破つて身體の中へ入るのだ。 ? 『俺は地方病博士だ』p.5
^ 病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。
一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。 ? 『俺は地方病博士だ』p.11

出典^ 山梨日日新聞社編『山梨 歴史カレンダー』p.242
^ 新村出 編『広辞苑 第七版』(第一刷発行)岩波書店東京都、2018年1月12日、2231頁。


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