地方病_(日本住血吸虫症)
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^ 日本は日本住血吸虫症 (Schistosomiasis japonica) を撲滅した世界唯一の国である[12]
^北相馬郡高野村(現:守谷市)、利根川下流対岸の印旛郡氾濫原一部[14]
^北葛飾郡彦成村(現:三郷市)、旧北豊島郡赤塚村および志村(現:板橋区)の非常に限られたごく一部[14]
^ 富士市沼津市にまたがる湿地帯の周辺[16]
^ 片山地区と県境を接した岡山県旧小田郡大江村(現:井原市)西代地区、当地では西代病(にしだいびょう)と呼ばれていた[17]
^ 流行末期の1977年(昭和52年)の段階ですら、厚生省(当時、現:厚生労働省)によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は、日本国内の日本住血吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉 (1979) P.44
^ 日本国内の他の流行地でも日本住血吸虫症とは呼ばず、独自の呼び名で呼ばれていた。広島県福山市片山地方では「片山病」、筑後川下流域の福岡県久留米市周辺では「マンプクリン」、筑後川対岸の佐賀県では単に「奇病」と呼ばれていた。ただし、病原が解明された後に、福岡、佐賀の2県では、住血吸虫の英名 Schistosoma を略した「ジストマ」と呼ばれるようになった[23]
^ 近代の中巨摩郡東部の呼称。現在の甲斐市、中央市、昭和町一帯。
^ 野午島ではなく野牛島と書いて「やごしま」と読む難読地名で、現在の南アルプス市(旧八田村中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、赤牛を貸し主とする椀貸伝説が伝わる池としても知られる。当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。
^ 現在の甲斐市の地名。甲斐市龍地。
^ 現在の韮崎市旭町および大草町付近。
^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
^ 『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林 (2000) pp.73-74
^ 執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.10
^ 酒精(エチルアルコール)に浸けられ、山梨県立病院に保存された。当時、ホルマリンは未だになかった。小林 (1998) p.39
^ 三神内科は2017年現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神医院である。2017年現在の同医院院長三神柏は三神三朗の孫に当たる。
^ 三神脳外科内科医院の中庭に、『明治37年7月30日此の地に於て初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と書かれた銅版がはめ込まれた石碑が建立されている。薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32
^ 官報6337号に記載された桂田の報告によれば、2回目の猫の解剖日時は7月25日となっているが、ここでは発見地にある石碑碑文に記載された7月30日を発見日とした。
^ カットー医師をドイツ人とする文献も存在するが、当時のシンガポールはイギリスの植民地であり、カットーはシンガポールに検疫官として赴任していた。小林 (1998) p.69。
^ 十郎川の通称「深マチ」という場所(現:山梨英和大学南方、国道140号横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編 (1977) p.167
^ 発見した水路の所在地を、酒井地区の北隣に位置する現鳥栖市曽根崎町とする資料(NPO法人宮入慶之助記念館しおり)もある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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