ヴェルサイユ条約における国境制定に関わったイザイア・ボウマンは1921年に『新世界:政治地理学における問題』を上梓し、「主観的」なドイツ地政学とは異なる、実証的、客観的、非イデオロギー的な科学としての地理学を米国のエリートは学ばなければならないと主張した。しかし、この著作についても米国中心的な視点から描かれたものであることが指摘されており、この視点では普遍的価値感を代表する米国が、他国を支配することは合理的な行為であるとみなされる。両者の地理学は、@ラッツェルの思想を理論的骨組みとしていること、A他者からは文字通り一線を画した自国という場所から世界を観察していること、B類似した観察方法を有し、結論の差異は学術的方法よりもむしろ歴史的地理的視座の差にほかならないという3つの点において類似点を見出すことができ、ボウマンは本人の意に反して「アメリカのハウスホーファー」と呼ばれることもあった[19]。第二次世界大戦期、フランクリン・ルーズベルトのアドバイザーとして重用されたボウマンは、国際連合の創設にも携わったが、国連本部がニューヨークに立地されたことは、ボウマンのような地理学者が、より普遍的なものを代弁しつつ、一方ではアメリカの国益を促進するような動きを展開していたことを示唆する[20]。
20世紀中葉の代表的地政学者としては、ニコラス・スパイクマンがいる。スパイクマンは「国力のみが対外政策の目標を達成できるため、その相対的向上が国家の対外政策の第一目的である」と述べ、国家は勢力均衡を保つためにパワーポリティクスに専念すべきだと考えた[21]。彼はマッキンダーの「ハートランド」「外部弧状地域」「内部弧状地域」のうち後者2つを「リムランド」「沖合」と改称し、ハートランドの拡大を防ぐためにはリムランドへの介入が不可欠であるとした。スパイクマンのこの主張は、アメリカが戦後、孤立主義から、封じ込め政策に代表される介入主義へと、政策の舵を切る理論的基盤となった[22]。
ハウスホーファーの地政学第一次世界大戦によりドイツが失った領土ハウスホーファーとルドルフ・ヘス
第一次世界大戦により、ドイツは全植民地と西部領土・北部領土・北東部領土および南東部領土を喪失した。新しい民主的政府がヴェルサイユ条約に調印せざるをえなかったという事実は、民主主義への訴えを弱め、国内におけるナショナリズムと地政学に対する興味を醸成した[11]。
当時のドイツ地政学の中心人物となったのが、カール・ハウスホーファーである。イギリス人であるマッキンダーがドイツとロシアの連携を危惧したのに対して、ドイツ人であるハウスホーファーは同様の世界観から両国の同盟の必要性を訴えた[11][注 3]。新しく誕生した共産主義国家である、ソビエト連邦との密接な協力を積極的に支持するのは不適切とみなされていた時期にあって、彼はソ連・日本との密接な協力により、ユーラシア大陸を横断する政治的ブロックを作り上げることこそが、大国としてのドイツを再興するための最良の手段であると主張した[11]。
ハウスホーファーはルドルフ・ヘスと親交を深め、「国境を越えたドイツ人の生存のために働く」ためナチスに積極的に協力した[11]。総統アドルフ・ヒトラーは、ハウスホーファーの思想から「生存圏」の概念を援用し、第三帝国が領土を拡張することの理論的根拠とした[23]。しかし、人種主義に重きを置かない彼の思想は、1930年代にはすでに求心力を失っており[24]、ヒトラーの政策とハウスホーファーの地政学は、独ソ戦が開戦される1941年には、食い違うものになっていた[11]。ハウスホーファーはドイツの降伏後、占領軍による尋問を受けたものの起訴はされず、1946年に妻とともに服毒自殺した[11]。
フレデリック・ソンダーン(Frederic Sondern)が1941年に、『リーダーズ・ダイジェスト』において「千人ものナチ科学者」を擁する「地政学研究所」がミュンヘンにあるという、事実ではない主張を展開したことに代表されるように、戦争中の英米における刊行物において、ハウスホーファーはナチスの政治戦略に事実以上に強い影響力をもたらしている人物として描写された[11][25]。地政学とナチスの強い結びつきに関する言説は、アメリカやソ連をはじめとする他の国々の地理学者の多くに、この用語を使うことをためらわせた[26]。 冷戦期のアメリカにおいては、地政学的視点が実際の政治と結びつく形で、政治家や外交・軍事政策アドバイザーに継承された[27]。アメリカが戦後の世界大国としてその役割を発展させはじめるにつれて、外交・軍事戦略論の文脈から、アメリカの行為を導き正当化するような地政学的世界観が生み出された[28][29]。 1980年前後になると、「地政学」という言葉は再び広く用いられるようになる。この一因として、ヘンリー・キッシンジャーが「地政学的(geopolitical)」という用語を多用したことが挙げられる[22]。コリン・グレイをはじめとする知識人は地政学立場より、勢力をユーラシア大陸全体に延ばそうとするソ連に対して攻撃的アプローチを取るべきだとジミー・カーターを批判し、この政策はロナルド・レーガン政権において受け入れられた。1980年代中期までには、アメリカにおける「地政学」は、アメリカの権力を維持したいという強い意欲を持った研究者によって主導されるようになり、アメリカが国益を追求する際の合言葉としての役割を持った[30]。 また、この時代には学生運動の影響を受けた若手研究者が政治分野の研究に取り組みだすようになった。彼らは、従来の政治的意識に欠ける研究者を「政治地理学者(英: Political geographers)」に対して自らを「政治的な地理学者(英: political geographers)」と呼んだ。こうした研究者のひとりであったピーター・テイラーは1985年に『世界システムの政治地理』を発刊し、同著において「地政学の再考」を主張した[31]。テイラーは、国家の意思決定は、 @目下の同盟国および潜在的な同盟国はどの国か という5つの想定をもとにした「地政的コード」に規定されると論じた[32]。テイラーを中心とした「新しい政治地理学」の再興は英語圏を中心に多くの研究者に刺激を与え、「新しい地政学」の潮流を生み出した[33][27]。
「地政学」の復活
A目下の敵国および潜在的な敵国はどの国か
Bどのようにして同盟関係を維持し、潜在的な同盟関係を促進するのか
C目下の敵国にどうやって対処し、脅威の出現にどのように対処するのか
D以上の4つの規定を国民とグローバル社会に対してどのように正当化するのか
批判地政学の誕生「批判地政学(英語版
ヘルマン・ファンデアヴステン(Herman van der Wusten)とジョン・オロッコリン(John O'Loughlin)は1986年に「Claiming new territory for a stable peace : how geography can contribute」を発表し、世界システム論を踏まえた空間分析という経験主義的アプローチを基礎としながら、戦争と平和の研究を政治地理学における新しい研究課題として位置づけた。