地中海
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イラクリオン[14]16151516192224252422201819.7
ヴェネツィア[15]11101113182225262320161417.4
バレンシア[16]14131415172124262421181518.5
マルタ[17]16161516182124262523211819.9
アレキサンドリア[18]18171718202325262625222021.4
ナポリ[19]15141415182225272522191619.3
ラルナカ[20]18171718202426272725221921.7
リマッソル[21]18171718202426272725221921.7
アンタルヤ17171718212427282725221921.8
テルアビブ[22]18171718212426282726232022.1

人類史
古代

地中海沿岸は古くより多くの民族が栄えてきた。最初に文明が栄えたのは東地中海で、古代エジプト文明をはじめ、アナトリアのヒッタイトクレタ島ミノア文明古代ギリシアミケーネ文明などが盛んに交易を行っていた。中でもミノア文明は地中海のただなかにあり、沿岸の各文明と盛んに交易していた。しかし、紀元前1200年頃、前1200年のカタストロフと呼ばれる大変動がこの地域を襲い、海の民と呼ばれる人々の襲撃によってヒッタイト、ミノア、ミケーネは崩壊。エジプトも大きく力を落とした。黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他。

やがて、紀元前12世紀頃から、地中海東端、現在のレバノン付近に居住していたフェニキア人が地中海交易を開始する。ついで古代ギリシア諸都市も沿岸交易を開始し、地中海沿岸にはフェニキアとギリシアの多くの植民都市が建設されていった。イスタンブール(ビザンチウム)、ナポリ(ネアポリス)、マルセイユ(マッサリア)、パレルモメッシーナシラクサなど、この植民都市に起源を持つ都市は現在でも多く残っている。この時期から、地中海においてはガレー船が多用されるようになった。地中海では風向きが安定しないため純帆船の使用は遅れ、17世紀に技術進歩によって帆船にとってかわられるまではガレー船が地中海の船舶の主流となっていた。

紀元前8世紀にフェニキアが政治的独立を失ったものの、植民都市の一つカルタゴが強大化し、地中海西部に覇を唱えるようになった。一方、地中海中央部では共和政ローマが強大化し、3度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅亡させた。ローマはさらにギリシア諸都市や沿岸諸国を次々と占領していき、最終的に紀元前30年プトレマイオス朝エジプトを併合して、地中海はローマ帝国の内海となり、「我らが海」(Mare Nostrum)と呼ばれるようになった。ローマの外港であるオスティアは拡大整備され、地中海沿岸各地に広がる属州から、ローマを支える大量の穀物や各種商品が運び込まれた。地中海全域が統一政府の下に置かれたことで海運は活発化し、地中海全域が一つの経済圏となった。
中世

ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の崩壊は地中海にも混乱をもたらし、ゲルマン民族の大移動によってやって来たゲルマン人が地中海を渡り、西ゴート王国やヴァンダル王国を建国した。一時的に東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の下でイタリア半島や北アフリカを回復したものの、7世紀に入るとイスラム帝国が地中海地域に進攻を開始し、8世紀には地中海南岸および東岸を領域化した。これに対し地中海北岸はフランク王国の主導の下でキリスト教圏に留まり、これによって地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂することとなった。キリスト教圏においてもこの頃、東ローマ帝国のギリシア正教圏と、ローマ教皇およびフランク王国のローマ・カトリック圏とに大きく分かれ、異なった文明となっていった。

イスラム帝国の侵攻とフランク王国経済の重心が北部に移動したことにより、一時衰退した地中海交易は、9世紀に入ると、アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアといったイタリア半島の諸都市が地中海交易に乗り出し、交易が再び盛んとなった。やがて徐々に力を蓄えたヨーロッパ諸国は東方への進出を試み、1095年に始まる第一次十字軍によってエルサレムを中心に地中海東岸にいくつかの十字軍国家が建設された。この後、7度を数える十字軍が起こされたが、十字軍諸国家は12世紀末以降徐々に衰退し、1187年にはアイユーブ朝を興したサラーフッディーンによってエルサレムがイスラム側に再占領された。これにより再び十字軍が組織されたが、第三回十字軍はエルサレム奪回に失敗。第四回十字軍はイスラムではなく東ローマ帝国に矛先を向け、1204年に東ローマの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が一時滅亡し、ラテン帝国が建国された。第一回十字軍は陸路を取ったものの、第二回十字軍以降は海路での侵攻が主流となった。この軍輸送はイタリア半島の交易都市群によって負担され、この頃までにはこの大軍を輸送するだけの輸送力をこれらの諸都市が持っていたことをあらわしている。この十字軍は一面で地中海の移動の活発化をもたらし、これ以降交易や文化交流は一層盛んとなった。ジェノヴァやヴェネツィア、アドリア海対岸のドゥブロヴニクラグーザ共和国)などが大貿易都市として栄え、この交易によって蓄えられた富や知識を基に、やがてイタリア半島においてルネサンスが始まることとなった。

一方、西地中海沿岸においてはアラゴン王国が13世紀以降、サルデーニャコルシカシチリア王国ナポリ王国を領有し、アラゴン連合王国として西地中海の制海権を握っていた。この制海権は、1479年にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して成立したスペイン王国へと引き継がれることとなった。
近世レパントの戦い

15世紀には、オスマン帝国アナトリア半島から勢力を広げ、1453年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。これにより、ボスポラス海峡を通って黒海方面に貿易帝国を築き上げていたジェノヴァ共和国は大打撃を受け、活動を西地中海へと移していくことになった[23]。一方、エジプトやシリアはいまだオスマン領ではなかったため、この地域を交易の基盤とするヴェネツィア共和国は東地中海の支配権を握り続けた。しかしオスマン帝国の膨張は止まらず、1517年にはエジプトのマムルーク朝がオスマンに征服され、オスマン帝国は地中海東方および南方を手中に収め、それまで地中海の制海権を握っていたヴェネツィア共和国やスペインと激しく対立した。1538年プレヴェザの海戦によってオスマンは全地中海の制海権を握ったものの、1571年レパントの海戦によって歯止めがかけられ、西地中海の制海権はやがてスペインが奪回した。

一方、アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパの交易中心は地中海から大西洋および北海へと移り、地中海の交易は相対的に地位が低下した。また、15世紀以降、マグリブ諸国からの海賊がキリスト教諸国の脅威となり、バルバリア海賊と呼ばれて19世紀初頭まで猛威を振るった。1783年に独立したアメリカ合衆国も、1801年第一次バーバリ戦争1815年第二次バーバリ戦争の2度にわたってバルバリア海賊と戦火を交えている。


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