地中海
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中新世末期のメッシーナ期(7.246±0.005百万年前 - 5.332±0.005百万年前)には一時的に大西洋との間で断絶が起き、596万年前から533万年前にかけてメッシニアン塩分危機が起こり、テチス海は塩湖化しながら縮小もしくは完全に干上がった時期が確認されている。

533万年前、再び大西洋とジブラルタル海峡で繋がると、200年以上かけて海水が流れ込むザンクリアン洪水(英語版)によって、地中海が形成された。塩湖からの影響で地中海は現在も大西洋より塩分濃度が高くなっている。
気候 地中海周辺のケッペンの気候区分図

地中海沿岸の多くは、夏は南方のサハラ砂漠方面から北上してくる高気圧によって乾燥し、晴天に恵まれる。一方、冬は北方から南下してくる低気圧によって雨が降り、湿潤な気候となる。この特徴的な気候はスペインからイタリア半島ギリシャアナトリア半島トルコ共和国)、マグリブ諸国のアトラス山脈以北などに分布し、ケッペンの気候区分においても地中海性気候(Cs)と呼ばれる独立した一区分となっている。一方、地中海でも緯度の低いリビアエジプト沿岸においては、ハドレー循環による北緯20度から30度にかけての亜熱帯高圧帯の直下に位置し、高気圧に一年中覆われる。このため、ナフサ山地によって海風が山にぶつかるトリポリタニア北部と、同じくアフダル山地にぶつかるキレナイカ北部を除き、砂漠地帯が広がっている。

また、前述した高気圧と低気圧の移動に伴い、地中海は多数の局地風があることで知られる。夏に南から吹く風としては、イタリアのシロッコ、リビアのギブリなどがある。ギブリは乾燥しているが、シロッコは地中海を越えてくるために蒸し暑い風となる。冬は逆に、北から強風が吹くようになる。アドリア海ボーラフランスミストラルなど、寒く乾燥した風が多い。
地中海の水温

平均海水温度 (℃)JanFebMarAprMayJunJulAugSepOctNovDecYear
マルセイユ[9]13131314161821222118161416.6
ジブラルタル[10]16151616172022222220181718.4
マラガ[11]16151516172022232220181618.3
アテネ[12]16151516182124242421191819.3
バルセロナ[13]13131314172023252320171517.8
イラクリオン[14]16151516192224252422201819.7
ヴェネツィア[15]11101113182225262320161417.4
バレンシア[16]14131415172124262421181518.5
マルタ[17]16161516182124262523211819.9
アレキサンドリア[18]18171718202325262625222021.4
ナポリ[19]15141415182225272522191619.3
ラルナカ[20]18171718202426272725221921.7
リマッソル[21]18171718202426272725221921.7
アンタルヤ17171718212427282725221921.8
テルアビブ[22]18171718212426282726232022.1

人類史
古代

地中海沿岸は古くより多くの民族が栄えてきた。最初に文明が栄えたのは東地中海で、古代エジプト文明をはじめ、アナトリアのヒッタイトクレタ島ミノア文明古代ギリシアミケーネ文明などが盛んに交易を行っていた。中でもミノア文明は地中海のただなかにあり、沿岸の各文明と盛んに交易していた。しかし、紀元前1200年頃、前1200年のカタストロフと呼ばれる大変動がこの地域を襲い、海の民と呼ばれる人々の襲撃によってヒッタイト、ミノア、ミケーネは崩壊。エジプトも大きく力を落とした。黄がフェニキア人の都市、赤がギリシア人の都市、灰はその他。

やがて、紀元前12世紀頃から、地中海東端、現在のレバノン付近に居住していたフェニキア人が地中海交易を開始する。ついで古代ギリシア諸都市も沿岸交易を開始し、地中海沿岸にはフェニキアとギリシアの多くの植民都市が建設されていった。イスタンブール(ビザンチウム)、ナポリ(ネアポリス)、マルセイユ(マッサリア)、パレルモメッシーナシラクサなど、この植民都市に起源を持つ都市は現在でも多く残っている。この時期から、地中海においてはガレー船が多用されるようになった。地中海では風向きが安定しないため純帆船の使用は遅れ、17世紀に技術進歩によって帆船にとってかわられるまではガレー船が地中海の船舶の主流となっていた。

紀元前8世紀にフェニキアが政治的独立を失ったものの、植民都市の一つカルタゴが強大化し、地中海西部に覇を唱えるようになった。一方、地中海中央部では共和政ローマが強大化し、3度にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅亡させた。ローマはさらにギリシア諸都市や沿岸諸国を次々と占領していき、最終的に紀元前30年プトレマイオス朝エジプトを併合して、地中海はローマ帝国の内海となり、「我らが海」(Mare Nostrum)と呼ばれるようになった。ローマの外港であるオスティアは拡大整備され、地中海沿岸各地に広がる属州から、ローマを支える大量の穀物や各種商品が運び込まれた。地中海全域が統一政府の下に置かれたことで海運は活発化し、地中海全域が一つの経済圏となった。
中世

ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の崩壊は地中海にも混乱をもたらし、ゲルマン民族の大移動によってやって来たゲルマン人が地中海を渡り、西ゴート王国やヴァンダル王国を建国した。一時的に東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の下でイタリア半島や北アフリカを回復したものの、7世紀に入るとイスラム帝国が地中海地域に進攻を開始し、8世紀には地中海南岸および東岸を領域化した。これに対し地中海北岸はフランク王国の主導の下でキリスト教圏に留まり、これによって地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂することとなった。キリスト教圏においてもこの頃、東ローマ帝国のギリシア正教圏と、ローマ教皇およびフランク王国のローマ・カトリック圏とに大きく分かれ、異なった文明となっていった。

イスラム帝国の侵攻とフランク王国経済の重心が北部に移動したことにより、一時衰退した地中海交易は、9世紀に入ると、アマルフィピサジェノヴァヴェネツィアといったイタリア半島の諸都市が地中海交易に乗り出し、交易が再び盛んとなった。やがて徐々に力を蓄えたヨーロッパ諸国は東方への進出を試み、1095年に始まる第一次十字軍によってエルサレムを中心に地中海東岸にいくつかの十字軍国家が建設された。この後、7度を数える十字軍が起こされたが、十字軍諸国家は12世紀末以降徐々に衰退し、1187年にはアイユーブ朝を興したサラーフッディーンによってエルサレムがイスラム側に再占領された。


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