地中海
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この後、7度を数える十字軍が起こされたが、十字軍諸国家は12世紀末以降徐々に衰退し、1187年にはアイユーブ朝を興したサラーフッディーンによってエルサレムがイスラム側に再占領された。これにより再び十字軍が組織されたが、第三回十字軍はエルサレム奪回に失敗。第四回十字軍はイスラムではなく東ローマ帝国に矛先を向け、1204年に東ローマの首都コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が一時滅亡し、ラテン帝国が建国された。第一回十字軍は陸路を取ったものの、第二回十字軍以降は海路での侵攻が主流となった。この軍輸送はイタリア半島の交易都市群によって負担され、この頃までにはこの大軍を輸送するだけの輸送力をこれらの諸都市が持っていたことをあらわしている。この十字軍は一面で地中海の移動の活発化をもたらし、これ以降交易や文化交流は一層盛んとなった。ジェノヴァやヴェネツィア、アドリア海対岸のドゥブロヴニクラグーザ共和国)などが大貿易都市として栄え、この交易によって蓄えられた富や知識を基に、やがてイタリア半島においてルネサンスが始まることとなった。

一方、西地中海沿岸においてはアラゴン王国が13世紀以降、サルデーニャコルシカシチリア王国ナポリ王国を領有し、アラゴン連合王国として西地中海の制海権を握っていた。この制海権は、1479年にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して成立したスペイン王国へと引き継がれることとなった。
近世レパントの戦い

15世紀には、オスマン帝国アナトリア半島から勢力を広げ、1453年には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略した。これにより、ボスポラス海峡を通って黒海方面に貿易帝国を築き上げていたジェノヴァ共和国は大打撃を受け、活動を西地中海へと移していくことになった[23]。一方、エジプトやシリアはいまだオスマン領ではなかったため、この地域を交易の基盤とするヴェネツィア共和国は東地中海の支配権を握り続けた。しかしオスマン帝国の膨張は止まらず、1517年にはエジプトのマムルーク朝がオスマンに征服され、オスマン帝国は地中海東方および南方を手中に収め、それまで地中海の制海権を握っていたヴェネツィア共和国やスペインと激しく対立した。1538年プレヴェザの海戦によってオスマンは全地中海の制海権を握ったものの、1571年レパントの海戦によって歯止めがかけられ、西地中海の制海権はやがてスペインが奪回した。

一方、アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパの交易中心は地中海から大西洋および北海へと移り、地中海の交易は相対的に地位が低下した。また、15世紀以降、マグリブ諸国からの海賊がキリスト教諸国の脅威となり、バルバリア海賊と呼ばれて19世紀初頭まで猛威を振るった。1783年に独立したアメリカ合衆国も、1801年第一次バーバリ戦争1815年第二次バーバリ戦争の2度にわたってバルバリア海賊と戦火を交えている。

スペイン継承戦争の結果、1713年ユトレヒト条約においてイギリスジブラルタルミノルカ島を獲得する。ミノルカ島はその後、アメリカ独立戦争中の1782年メノルカ島侵攻によってスペインが奪還するが、ジブラルタルは現在までイギリスの重要な軍事基地となっている。

1798年には、フランス共和国のナポレオン・ボナパルトが海路エジプト遠征を行い、イギリスの地中海と紅海・インド洋との連絡を断ち切ろうとした。しかし海軍力に勝るイギリスはホレーショ・ネルソン指揮下でナイルの戦いにおいて勝利を収め、地中海の制海権を確立する。補給を絶たれたフランス軍は1801年に降伏した。以後もナポレオン戦争中、イギリスはマルタ島イオニア諸島を占領し、地中海における重要拠点とした。特にマルタ島には地中海艦隊の本部が置かれ、イギリスの地中海制海権を担っていた。
近代

19世紀に入ると、オスマン帝国の衰退に乗じ、北岸のヨーロッパ諸国が対岸の北アフリカを植民地化していった。1830年にはフランスがアルジェリア侵略を行い、これによりバルバリア海賊が完全に消滅するとともに、以後1962年までフランスがアルジェリアを支配した。

1820年頃から、一時は完全に喜望峰回りに移っていた東西交易のメインルートが、再び地中海経由に戻る兆しを見せ始めた。イギリス東インド会社の非効率と、外洋へ進出し始めた蒸気船の進歩が、距離の短い地中海ルートの復権を促したのである。1820年代には英領インドからイギリスまでの定期蒸気船航路の開設が叫ばれるようになるが、このルートには、カルカッタ財界の推す喜望峰ルートと、ボンベイ財界の推すスエズルートの二つのルートが存在した。喜望峰ルートは一時定期船を就航させたものの、燃料である石炭の補給基地の開設に失敗。結局、1835年にイギリス政府はボンベイからスエズへ蒸気船航路を開設し、スエズからアレキサンドリアまで陸送した後、アレキサンドリアから地中海を西へ向かい、マルタ島を経由してジブラルタルで英国本土行きの帆船に載せ替える郵便ルートを正式に採択する[24]。これにより、地中海は再び東西を最速で結ぶ経路となった。19世紀、スエズ運河開通直後の風景

この頃、東西海運のネックとなっているスエズ地峡に運河を開削する案が浮上する。この案は歴史上何度も現れては消えた案であったが、産業革命の進展により実際に運河を建設する条件が整ったからである。イギリスはこの案に消極的であったが、フランスがこの案を積極的に進め、フェルディナン・ド・レセップスによって設立されたスエズ運河会社によってスエズ運河1855年着工し、1869年に開通した。これにより、地中海と紅海が一本の水路でつながり、地中海を経由する東西直航ルートが可能になった。

スエズ運河開通で、地中海は完全に東西交易のメインルートへと復帰した。地中海沿岸、特に北岸は産業革命の進んだ先進地域が多く、またアフリカ大陸を迂回する喜望峰回りルートに比べ、時間・距離・コストともに圧倒的に有利だったからである。蒸気船の就航により地中海内一般航路の時間も短縮され、本数も増加して、多数の航路が地中海内に開設されるようになった。この時期、とくに19世紀に入って以降、従来の地中海沿岸諸国に加え、地中海への入り口を確保したオーストリア帝国(のちにオーストリア・ハンガリー帝国)が、アドリア海の湾奥にあるトリエステ港を整備し[25]、ここを拠点として地中海進出を進めていた。
現代

第一次世界大戦では、地中海は重要なシーレーンと戦場になった。地中海沿岸に領土や権益を持つ諸国が、英仏伊の連合国と、オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン帝国、ドイツ帝国中央同盟国に分かれたためである。特にアドリア海はイタリア海軍オーストリア=ハンガリー帝国海軍の間で、オトラント海峡海戦などいくつかの海戦が起こった。英仏は地中海を経由してオスマン帝国本土へ遠征(ガリポリの戦い)。連合国側で参戦した日本第二特務艦隊を地中海へ派遣した。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。アドリア海沿岸の旧領は、イタリアとセルビア王国の後継であるユーゴスラビア王国が獲得した。


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