土門拳
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1927年 - 考古学に興味を持ち、学校の周囲で土器石器掘りに熱中する。

1928年 - 旧制神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)卒業。日本大学専門部法科に進学するが中退、[3] 逓信省の倉庫用務員になる。

1929年 - 三味線に熱中し、常盤津の師匠に弟子入りする。

1932年 - 農民運動に参加し、検挙される。

1933年 - 遠縁にあたる宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。
「アー アー」(1935年、土門拳撮影)

1935年 - 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選した[1]。またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募、名取のもとで報道写真を撮り始めた[1][4]

1936年 - 日本工房発行の欧文雑誌『NIPPON』の記事作成のため、伊豆を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や、「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作に数えられる。

1937年 - 早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。なお同書は2009年に復刻された。

1938年 - 土門が撮影した、当時の外務大臣宇垣一成ルポルタージュ、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」9月5日号に掲載される。濱谷浩藤本四八光墨弘田村茂林忠彦加藤恭平杉山吉良らと「青年報道写真研究会」を結成。

1939年 - 著作権の取り扱いをめぐって名取と対立し、日本工房を退社(→「名取洋之助との対立」の節を参照)。外務省の外郭団体・国際文化振興会の嘱託となる[2]。中村たみと結婚[2]。美術史家・水澤澄夫の案内で初めて室生寺を訪れ、撮影した[2]

1941年 - 文楽の撮影を開始する。対米宣戦布告の号外を見たのは、大阪四ツ橋文楽座の楽屋でのことだった[5]徴兵検査を受けるが不合格となり帰郷。

1943年 - 第1回アルス写真文化賞受賞[6]荻原守衛の彫刻作品を撮影する。
新橋演舞場で文楽の撮影をする土門 (1943年、撮影者不明)

1946年 - 戦後はじめてとなる古寺の撮影を開始する。
木造普賢菩薩騎象像(国宝、大倉集古館所蔵、土門拳撮影)[7]

1949年 - 写真雑誌「カメラ」の企画で桑原甲子雄編集長とともに大阪、中国地方の旅に出る。大阪でははじめて安井仲治のオリジナルプリントの作品にふれる。鳥取では植田正治らと撮影会をおこなう。

1950年 - 木村伊兵衛とともに「カメラ」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱。また木村とともに三木淳の結成した「集団フォト」の顧問になる。
十一代目 市川團十郎「海老さま」(1951年、土門拳撮影)

1953年 - 江東区の子どもたちを撮りはじめる。写真集『風貌』(アルス社)刊行。このころからカラーフィルムを使いはじめる。
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