土田 晃之(つちだ てるゆき、1972年〈昭和47年〉9月1日 - )は[1]、日本のお笑いタレント、司会者、コメンテーター。太田プロダクション所属[1]。身長183 cm、体重75 kg[1]。血液型AB型[1]。
東京都練馬区出身、埼玉県大宮市(現・さいたま市見沼区)育ち[4]。大宮市立大砂土中学校(現・さいたま市立大砂土中学校)、埼玉工業大学深谷高等学校(現・正智深谷高等学校)、専門学校東京アナウンス学院お笑いタレント科(現・芸能バラエティ科)卒業[5]。 1979年、小学1年生の時まで東京都で育ち(練馬区立南町小学校に通学。別のクラスだが同学年にワッキーがいた。ワッキーも小学校1年生で転校[6])、野球をやっていた[7]。1980年、小学2年生の時に大宮市(現・さいたま市)へ引越したが、転校先の小学校の授業についていけずに落ちこぼれていた[8]。当時からお笑い芸人を夢みていたが、人前ではしゃぐような明るいタイプではなく、一人でネタを考えてこそこそ笑っているタイプだった[8]。運動神経が鈍くて鈍足だったため、学校でサッカーをやるとディフェンダーばかりをやらされ運動神経のよい同級生たちに打ちのめされる日々を過ごした[7]。 1985年、中学校1年生のときに、調子づいた態度が災いしてクラスメイト全員から無視されていたが、父親の言葉に後押しされて不登校にはならなかったとのこと[9]。 中学生時代、教育熱心な母親に反抗的だったが、土建業を営む父親には頭が上がらず、その父親から「家計が厳しいから私立高校へは通わせられない。公立高校に行け」と厳命された[8]。しかし、最底辺の成績しか残せず、担任から受験すれば誰でも受かる私立高校(埼工大深谷高校 現・正智深谷高校)を勧められて、父親に土下座をして入学金と授業料を支払ってもらった[8]。高校1年生の時に無期停学処分を受けたものの、3年間で卒業した[8]。 卒業後に東京アナウンス学院のお笑いタレントコースに入学。同級生によれば演技はうまかったが、何日も稽古をサボったり、漢字が大の苦手で台本が読めず「“海”という字が読めなくて止まってました」という[10]。 専門学校時代はフジテレビのエキストラのアルバイトをしており、『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!!』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』に出演していた。体が大きくて目立つので重宝されたという[11]。 1991年4月、東京アナウンス学院に在籍していた時代に対馬盛浩と出会い、「元不良と元生徒会長」のアンバランスさを売りにしたお笑いコンビ、U-turnを結成した[12][13]。1992年2月[1][14]、コンビ結成後の初舞台のライブが思いのほか好評だったこともあって、自信満々になり「ダウンタウン?2年で抜いてやるよ!」と豪語した[15][16]。 『GAHAHA王国』(テレビ朝日)『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ)などのお笑い番組やライブに出演したが、1999年に『ボキャブラ天国』が終了して収入が激減した結果、2001年に対馬が廃業を決意し、コンビ解散となった[17]。対馬の廃業の件は、事務所を通じて知ったとのことで、それまで「コントがウケなかったら相方の責任にしていた」ことが頻繁にあった[13]。その後は、ピン芸人として自立することになった[17]。 ボキャブラ天国が打ち切りとなり、ピン芸人になって仕事が大幅に減少して困っていた時にプライドを捨て、まだ幼い子供と妻を養う為にそれまで否定的だったリポーターの仕事も請け負った[16]。その結果、『銭形金太郎』(テレビ朝日)でレギュラーになるなど、リポーターの依頼が増えた[16]。
略歴
学生時代
U-turn時代詳細は「U-turn」を参照
ピン芸人