土橋正幸
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「巨人であれだけ実績を残した人が、東映へ来てまた一からチームを把握していったのだからすごい」とも語っていた[12]。東映が「暴れん坊チーム」と呼ばれたことについては「だって山本張本らがいただろう。見た目がそうだったんだよ」と笑い飛ばしていた[12]

1961年には30勝(16敗)防御率1.90とキャリアハイの成績を残したが、同年に稲尾和久が42勝、防御率1.69を記録したため、土橋はいずれも2位に終わるなどタイトルに関しては不運だった。1962年は17勝14敗、防御率2.38(4位)と勝ち星は伸びなかったが東映のリーグ初優勝に貢献。一方で、3度のサヨナラ本塁打による敗戦を記録している[注 2][13]阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に登板し、2勝1敗、防御率1.71と活躍。バッテリーを組んだ種茂雅之とともにMVPに選ばれるが、2人同時受賞はNPB史上唯一となっている。水原から強い信頼を受けていた土橋は第1,2戦で連続先発するも、いずれも打ち込まれ連敗。水原はこれに衝撃を受けたが、「ヤツはそんなやわなピッチャーではない」と、土橋への依存は変わらず、以降はリリーフに回ってフル回転する[14]。第3戦で5回を零封して引き分けに持ち込むと、第5戦でも4回零封の好リリーフを見せサヨナラ勝ち。甲子園球場に舞台を移した第6戦でも阪神の追い上げをかわして3回1/3を無失点に抑えて逃げ切ると、第7戦でもリリーフで登板、延長12回1死でマイク・ソロムコを三振、更にルーキーの藤井栄治一塁ゴロに仕留め、土橋はこの試合の勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。

1963年1964年は連続で20勝に到達し、7年連続2桁勝利を挙げた。しかし1965年は肩痛もあって4勝[15]に終わると、1966年は復活して6月26日に6勝目を挙げるも、7月14日の近鉄戦で激痛に見舞われ[15]右わき腹の筋断裂で全治3カ月と診断され、以降シーズン終了まで登板なし[15]1967年になると右手首痛や両足のアキレス腱痛もあって未勝利に終わり、同年限りで引退した[15]。通算162勝は球団最多記録。

元同僚で、悪役俳優の八名信夫とは仲が良かった[12]
現役引退後

引退後は、東映で二軍投手コーチ(1969年)、一軍投手コーチ(1970年 - 1971年)を務める。

東映コーチ時代には、高橋善正ら5人の選手が門限を破り土橋に説教されたことがあったが、その選手の一人である松本俊一が「僕らを殴ってください」と言い出す。これを聞いた高橋は「おいおい。やめろよ」と思ったが、土橋は無言で松本を殴り、松本は4メートルも吹っ飛んでその後1か月むち打ちに苦しむことになり、高橋と吉田誠も殴られた[16]張本勲大杉勝男ら当時の東映にいた武闘派の選手からも恐れられており、高橋は高校の後輩でもある江本孟紀に「土橋さんに5、6人ぶっ飛ばされている。5メートルぐらいぶっ飛んだ奴はいくらでもいる。」と忠告している[17]。一方で、江本は「最近はやたら科学的なトレーニングが取り入れられているが俺は土橋さんの鬼のような特訓[注 3]で成長させてもらったと思っている。それに土橋さんは怖い人だけではなく厳しさの中で愛情が感じられ、不思議と反発感情は生まれなかった。これぞ人徳だろう。今日の野球界に、土橋さんのような豪快と優しさを兼ね備えた人がいなくなったことを本当寂しく感じる。少なくとも投げられるピッチャー江本に育ってくれたのは東映であり、土橋さんだ」と評している[18]

1973年の前期は5位に終わり、田宮謙次郎の監督更迭を受けて同年後期から監督に昇格し、ヘッド兼打撃コーチには選手兼任で張本が就任。後期の成績は6年ぶりの3位であったが、球団が日本ハムへ身売りし、大社義規オーナーと同じ香川県出身の三原脩が球団社長、三原の娘婿にあたる中西太が監督に就任し、土橋は解任され張本は一選手に戻った[19]。なお、このことについて、土橋は「日拓で後期から監督になった時は、やりたくなかったのに説得されてだった。なのに球団身売りでサヨナラだからやってられねえよ」と語っている[15]

退団後はフジテレビニッポン放送の解説者(1974年 - 1983年)を務め、この間の1981年オフには契約を1年残して退団した山内一弘の後任監督としてロッテオリオンズから就任要請を受けるが、断っている[20]。 

また、同じ頃ヤクルトスワローズは投手陣の崩壊により2年連続で最下位(1982年 - 1983年)となり、特に「投手陣の立て直し」が緊急の課題になっていたため、厳しい指導で知られる土橋に白羽の矢が立ち、一軍投手コーチとして1984年より就任[21]。しかし4月27日武上四郎監督は開幕から18試合消化した時点で、「8連敗を含む4勝13敗1分けという不成績の責任をとる」と言い休養[21]翌28日から代理監督となった中西太ヘッドコーチが同じく18試合を戦い終えた時点で、「1分けを挟む8連敗」を記録し「健康上の理由」で姿を消した[21]。そのため5月22日からは土橋が代理監督代行(のちに代理監督)として指揮を執った[22]。この時点で9勝25敗3分、5位横浜大洋ホエールズに4ゲーム差の最下位だった[21]

土橋は4月20日、「闘争心のない選手は使わない」と表明[21]松岡弘井本隆井原慎一朗の3ベテラン投手にファーム行きを命じ、6月15日から代行から正式に監督に昇格すると[21]、一度、一軍ベンチに引き上げていた松岡に二度目のファーム行きを命じるなど、チームの体質改善に躍起となった[21]。6月になってプロ入り5年目の大川章に初先発を命じたり(初勝利)、一度引退し打撃投手になっていた有沢賢持に現役復帰を命じたり、あらゆる策を模索し打っていた土橋は、開幕以来抑えが多かった尾花高夫を再び先発に回して投手陣の柱にし、8月には5勝2敗2セーブ、9月は5勝0敗1セーブと成果を上げその指導は見事に実った[21]。ほか、ルーキーの高野光は10勝12敗2セーブ、梶間健一は12勝11敗2セーブをマークした[21]。チームも8月には15勝10敗の成績を挙げ(1982年4月からずっと続いていた連続月間負け越しは18カ月でストップ)[21]、後半戦は26勝23敗2分と巻き返す。最終成績は5位で3年連続の最下位は免れた。なお被本塁打177本、失点653、防御率4.76はいずれもリーグ最低の数字だった[21]。打線は若松勉(打率.325でリーグ2位)、ボビー・マルカーノ(打率.300、15位)はよく打ったものの、チーム個人最多本塁打が八重樫幸雄の18本で、チーム本塁打101本は、リーグ最多の中日ドラゴンズよりも90本も少なかった[21]。チーム盗塁数も49で、リーグ盗塁王高木豊(大洋)の56盗塁よりも少なかった[21]


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