土岡組
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その後、美能幸三は、保釈で出た12年の刑で広島刑務所収監され、さらに、土岡博殺人未遂で懲役8年の実刑が加算された。

1949年11月26日午後5時ごろ、福山競馬場で、大西政寛は、鼻万三らとともに、賞金問題で競馬騎手に因縁をつけて、暴行を加えた。

1950年1月20日から1月25日まで、波谷守之は、波谷吾一に出資してもらい、呉第二劇場で、浪花節の吉田奈良丸一行の興行を打った。波谷守之は、波谷の若衆・沖田秀数、番野正博を連れて、呉市に入った。

1951年9月、土岡博は賭博罪で逮捕され、広島刑務所に収監された。1952年6月、土岡博が出所した。同年6月22日、佐々木哲彦の若衆が、土岡博を射殺した。土岡博の死亡により、土岡組は瓦解した。

同年8月、今治市の博徒・森川鹿次は、波谷守之、河面清志、山村組から破門された今田泰麿、今田泰麿の若い者・荒井忠良の4人を自宅に匿った。森川鹿次は、波谷守之に、山村組への報復を思い止まるように諭した。波谷守之ら4人は、森川鹿次の説得を振り切って、船で岡山を目指した。手配中だった波谷守之ら4人は、岡山で警察に逮捕され、岡山刑務所に服役した。
最高幹部 

組長:
土岡博

若頭:大西政寛

幹部:土岡正三

注釈^ 広島一を言われた親分。明治37年生まれ。子分には侠導会初代・森田幸吉の親分に当たる高橋徳次郎もいた。当時、長次郎の賭場での給料は一番格下の飯炊きで月に二百五十円、一人前なら千円は貰っていたという。公務員の初任給が月に三十五円前後のころである。
^ 総勢400名を超える広島博徒が統一組織化された。毎朝7時半に長次郎宅に集合し被服廠や兵器廠などで勤労奉仕を行った。で、勤労奉仕をした。夕方5時になるとNHK広島放送局が長次郎を迎えに来る。夕方のラジオ放送で長次郎は「ただいまからは遊んでも博打を打ってもええが、12時にはぴしゃっと止めて、朝7時は起きて仕事場にいくように」と広島じゅうの博徒に命令するのである。これら勤労奉仕の給料は長次郎の賭場のアガリで賄っていた。ある日どうしてもと国が二万五千円を長次郎に渡すと、これを五万円にして「飛行機を作る足しに」と軍需工場へ寄付をしてしまったというエピソードがある。
^ 当時の若い衆であった波谷守之は必死になって長次郎の遺体を探し歩いたが、かけらも見つからなかった。やがて波谷自身も二次被曝により病臥する。
^ 土岡博は古いタイプの博徒であったため、呉で「ボンクラ」と呼ばれる不良・愚連隊は「行儀が悪い」として“入門”を許さなかった。土岡組に入れない愚連隊は、土建業を営む桑原のもとにたむろし「おかつちがどしたんない、いつでも相手になるど」と土岡の悪口を並べ立てた。苦にがしく思っていた博の兄正三と大西らは桑原の殺害を計画。祭りに桑原たちが集まっている所へ乗り込むと桑原たちは逃げたが、小原馨は残った。小原は22歳の若者であったが性根がすわっているだけに、留まったのである。
^ この出来事が引き金になり、久保健一は引退を表明し、市議会議員選挙に立候補を決意する。土岡組の勢いを前に抗う力を失った出来事であった。
^ 土岡博は侠気にあふれた親分であったが、金と女にだらしが無く大西にはそのあたりが合わなかった、また大西の賭場で酔った正三が暴れた事があり大西の気持ちは土岡組から離れていった。大西の微妙な気持ちを突いたのが山村で、口のうまさと金で大西の懐柔に成功する。
^ 山村は美能に「博は生きとる、なんで止めを刺さなかったんかい、もう一度やれい」とけしかけ、あげくに「わしには責任はない、こんなが責任をとれい」と冷たい仕打ちであった
^ 波谷は「わしを撃つなら撃ちないよ、そのかわり一発だけ、わしも撃たしてもらうけん」と腹巻の道具を握りしめた
^ 「どうして波谷を生かして帰したんない」と責める山村に、大西は「ほかの者じゃったら生かして帰さんけん、守之じゃ可愛いけんのう。あいつは生かしとったら必ず男になるけん」と答えている

参考文献 

本堂淳一郎
『広島ヤクザ伝 「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40420-3


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