土岐氏
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鎌倉時代の美濃の守護は大内惟義大内惟信、その後は北条氏宇都宮氏であり、鎌倉時代に土岐氏が守護になったことはない。

承久3年(1221年)の承久の乱では美濃が主戦場となり、京方(後鳥羽上皇方)に「土岐判官代」の名が見え、これを光衝の子の光行とする書物もあるが、光行はこれ以後も幕府の記録の『吾妻鏡』に登場しており、京方の「土岐判官代」は弟の光時と考えられる[4]

光行の子の光定の時に9代執権北条貞時の娘[5]を妻としており、土岐氏が幕府において有力な地位にあったことが分かる。嘉元3年(1305年)、光定の子の定親(蜂屋氏)は連署北条時村襲撃事件(嘉元の乱)に関与して処刑されている。兄弟の頼貞に累は及ばなかったようで、頼貞の系統が土岐氏の嫡流となる。

鎌倉時代には土岐氏は庶流を美濃国内に多く土着させて、家紋にちなんだ「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成していた。
南北朝時代

正中元年(1324年)に起きた後醍醐天皇の最初の討幕計画である正中の変において『太平記』では頼貞が計画に加担し、陰謀を察知した幕府軍に討たれる話になっている。しかしながら、頼貞はその後の戦乱で活躍しており、記録に混乱があるが、土岐氏の一族がこの計画に関与したのは確かである。

元弘元年(1331年足利尊氏新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府が滅亡した時(元弘の乱)には頼貞は尊氏に味方し、その後の南北朝の争乱でも尊氏とともに転戦して戦功をあげ、美濃守護に任じられた。美濃に強い地盤を持つ土岐氏は足利将軍家を支える有力な武士団となっていた。

頼貞から守護職を継いだのは、勇猛な武将でバサラ大名としても知られる頼遠である。頼遠は平安時代からの発祥の地であった、それまでの土岐郡から厚見郡に新築した長森城へと本拠を移転している。その他、合戦では目覚しい働きを示していたが、驕慢な振る舞いが限度を超えて、康永元年(1342年光厳上皇への狼藉事件を起こして処刑されてしまう。

美濃守護職は頼康(頼貞の孫。頼遠の甥)が継ぐと、合戦では尊氏・義詮父子に味方し、度々戦功を挙げた。本領美濃の他にも、尾張伊勢の守護職を兼任する大大名となり、最盛期を迎えた。その上、評定衆にも加えられた頼康は、幕府創業以来の宿老として重きを置かれた。

なお、土岐氏は「御一家の次、諸家の頭」(『家中竹馬記』・『土岐家聞書』)、すなわち足利氏の一門(細川・斯波・畠山・一色・山名氏など)には上位を譲るものの、それ以外の諸大名の中では筆頭であると自負していた[6]

美濃国内においては、叔父が新築した長森城が手狭であるとして、同じ厚見郡内に川手城を築いた。以降、川手城は室町期を通して13代守護頼芸に至るまで、土岐宗家の居城となった。
室町時代

嘉慶元年(1387年)頼康が死去すると、養嗣子に迎えた甥の康行惣領を継ぐ。ところが、3代将軍義満の治世では将軍の権力強化の煽りを受けて、勢力削減の対象となった守護大名家が出てきた。足利氏の一門である今川氏でさえ、これまで大功のあった今川了俊が処罰され、勢力を弱められている。

だが、土岐氏への処断は今川氏よりも早かった。康行は総領でありながら美濃と伊勢の2か国のみの領有しか許されず、残る尾張は満貞(康行の実弟)に分与されてしまう。この処置に不満な康行は挙兵に追い込まれて、幕府軍の討伐を受けて没落した(土岐康行の乱)。美濃守護職は頼忠(頼康の弟。康行の叔父)に与えられたが、土岐氏の伊勢守護職は認められずに仁木氏へ移った。以後、土岐氏の惣領は、頼忠の系統(土岐西池田氏:神野氏)が継ぐことになる。

伊勢を召し上げられた康行は、明徳2年(1391年)の明徳の乱で幕府方として参戦。奮戦が功として認められたため、後に伊勢守護に復帰した。この康行の系統は土岐世保家と呼ばれる。一方、明徳の乱に幕府方として参戦した満貞は、卑怯な振る舞いがあったとして尾張守護を解任され没落。尾張守護は斯波氏に継承された。土岐氏の勢力は義満の目論見によって、尾張守護職を失った上に2家に分けられて大きく削がれることとなった。

しかしながら、美濃の守護職を継いだ頼益(頼忠の子)は、優れた武将で合戦でたびたび戦功があり、「幕府七頭」の一家として評定衆に列し、侍所別当として幕閣の重鎮となった。

かつての土岐康行の乱では土岐氏庶流の多くが康行に付随したため、新たに美濃守護となった頼忠の土岐西池田氏は外様の国人である富島氏と斎藤氏守護代として重用する。その後、頼益の子持益の頃に富島氏と斎藤氏の争いが美濃全土を巻き込む内乱に発展した(美濃錯乱)。最終的に勝利した斎藤氏が、守護代を単独で継承して美濃の実権を握るようになった一方、持益は隠居させられ、斎藤利永が擁立する庶流の成頼が守護になった。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起きると成頼は西軍に加わった。この乱では利永の弟斎藤妙椿が活躍、美濃の東軍方(富島氏)を駆逐し、更に公家荘園国衙領を盛んに押領して国内を制圧。尾張、伊勢、近江飛騨まで勢力を伸ばして、妙椿は西軍の重鎮に数えられるようになる。斎藤妙椿は越前朝倉孝景と共にこの時代に守護代が守護の力を凌いだ事例(下克上)として有名である。

応仁の乱後、成頼は西軍の足利義視義材父子を革手城に11年間受け入れており、長享3年(1489年)に第9代将軍足利義尚が近江にて病死すると足利義材が第10代将軍に就任した。


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