土偶
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また、大半の土偶は人体を大きくデフォルメして表し、特に女性の生殖機能を強調していることから、安産・多産[27]などを祈る意味合いがあったものと推定する説もある。その他、用途に関しては、生命の再生[27]神像女神像を含む)、精霊の像、呪物お守り(護符)など様々な説がある。子供玩具やお守りであったとする説[27]、破壊することで身体の悪い所の快癒を祈ったとする説[27]、ばらばらになるまで粉砕された土偶はそれを大地にばら撤くことが豊穣の祈念を意味したとする説[27]などもある。また、集落のゴミ捨て場などに投棄された状態で出土されることが非常に多く[26]、これは、最初から意図的に破壊して投棄することが目的であったという説を支持するものである[26]。ほかにも、考古学者水野正好の唱える説では、縄文人は冬期の太陽の弱まりを怖れ、土偶祭祀は冬を中心に行われたという[28]土偶 長野県茅野市棚畑遺跡出土/縄文のビーナス

土偶(※最狭義)は、人または人型の霊的存在を、こねた土で造形表現し、素焼きで焼成している。全体的には人体を模して成形されているが、頭・胴・手・足などでは抽象的表現が非常に目立つ。しかし、乳房[29]正中線(せいちゅうせん)[29]妊娠時の腹部[29]女性器[29]臀部など、特定の部位および状態の表現は具体的なものが多い。ほとんどの土偶は女性型であるが[26]北海道千歳市にあるウサクマイ遺跡群の縄文時代晩期層から出土した板状土偶(ばんじょうどぐう)のように、男性器の表象と考えられる突起部を股間に有するものや[30]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}体型の異なる2体の土偶が同時に出土し、片方が男性と考えられるものなど[要出典]、男性型と思しき土偶も数点の発見例がある。構造については、まずは内部の空洞の有無、すなわち中空(中が空いている)か中実(中まで詰まっている)かで大別し、それぞれを「中空土偶」(ちゅうくうどぐう)「中実土偶」(ちゅうじつどぐう)と呼んでいる[27]。中空土偶は、縄文時代中期[31]に出現する。また、人体を部位別に作ってから組み立てる構造であったかもしれないものと、そうでない普通のものがあり、前者の例としては、既知で最古級の土偶である相谷土偶(滋賀県の相谷熊原遺跡から出土した土偶)を挙げることができる。

動物土偶は、縄文時代後期から晩期にかけて、主に東日本から出土しており、最も数の多い猪(いのしし。瓜坊を含む。cf. 日ノ浜遺跡出土の動物土偶)を始めとして[11]、犬(いぬ[11]、猿(さる[11]、熊(くま[11]?鼠むささび[11][6]、海豹(あざらし)にも見える動物[6]水鳥[6]、亀(かめ[11][6]水生昆虫ゲンゴロウ類[11]などがある。

土偶の中に見られる線刻から当時の日本人に入れ墨文化があった傍証とみる考え方がある。線刻は埴輪にも続いて見られる
出現
発生期の土偶

現在知られている限りで日本最古級の土偶は、三重県で2箇、滋賀県で1箇が出土した縄文時代草創期後半のもの、すなわち、粥見井尻土偶相谷土偶である。いずれも小形で、やや厚みのある板状、頭と両腕を突起で表現しており、顔や手足の表現を欠くが、乳房は明瞭に表現されている。

縄文時代早期前半になると、関東地方東部に逆三角形や胴部中程がくびれた形の土偶が出現し、早期後半には東海地方にまで分布を広めて、それぞれが明確な土偶形式を形成している。前期は、この延長線上で板状土偶が発達した。しかし、この段階の線刻礫や土偶が実際にどのような目的で造形されたのかは分かっていない[32]
立像土偶群馬県東吾妻町出土のハート形土偶

縄文時代中期初頭になると土偶は立体的になり、頭部と四肢の表現が明瞭化すると共に、土偶自体が自立できるようになる。この造形変化は、縄文時代の全期を通じて最も大きなものであった。しかし、突然に変化したのではなく、前期後半には顔の表情豊かな土偶が既に現れていた。表情豊かな土偶で現在知られている最も古い時代に属するものは、縄文時代前期前半の千葉県の石揚遺跡(千葉県柏市泉石揚1254ほかに所在)から出土したものであり、扁平・円形の頭部に2?6個の丸い孔があけられている。同じような表情豊かな土偶は、東海地方から関東地方までの東日本で現れ、当時の土器型式圏を越えた広い範囲に分布している。それが前期末葉になって、新たな変化は東北地方で現れ始める。長野県辰野町出土の仮面土偶(複製)/森将軍塚古墳館所蔵。

前期後葉の宮城県糠塚貝塚の土偶[33]に始まる。それは両眼・口の表現の獲得である。それ以降は、東北地方中部に分布する土偶から、顔面の表現が次第にはっきり形作られてゆき、北陸地方や中部高地に広がっていき、中期初頭には「立像土偶」へと移り始め、胴部が板状、頭部が円盤状、正面に目・鼻・口が添えられる程度であるが、短期間に立体化し、自立可能な立像を完成させた。長野県棚畑遺跡[34]出土の「縄文のビーナス」はその到達点である。この急速な変化は、それまでの土偶が子孫繁栄、安産祈願、祭祀等の個人レベルの目的に作られてきたのに対して、同時期より村落共同体レベルでの祭祀にも使われるようになったためと考えられる。つまり、土偶はこの中期前葉になって縄文社会に定着したと思われる[35]

縄文時代後期になると、ハート形土偶が現れる。後期から晩期にかけて、関東から東北地方では、山形土偶みみずく土偶遮光器土偶[* 4]などが大量に作られる。また、仮面を被ったもの(仮面土偶)なども見られる[36]九州を除く西日本では人型土偶は稀で、簡略で扁平な分銅形土偶などが多い[37]

縄文時代晩期には頭部の形状が髪を結ったように見える結髪土偶が現れる[38]
土偶の一覧

ここでは、特筆性の高い個々の土偶について解説する。特筆性の高さは考古学的価値や文化財的価値とイコールではないが、現在のところ、記載すべき土偶はおおむね高い価値を認められたものである。
国宝



国宝に指定されている土偶は、国宝に指定された年度の古い順に記載する。本節で使用している通し番号は国宝指定番号とは無関係である。

土偶の通称・愛称と、文化財としての指定名称とは異なることが多い。本節ではこの2つを明確に書き分けている。

国宝に指定されている土偶は、2020年現在、全国で5箇を数えるが、いずれも東日本で出土している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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