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商業主義に伴う宣伝を激しく嫌っていた。特にダイレクトメールは新字体による「団伊玖磨」の宛名書きで来る場合が多く、この表記による郵便物を(ダイレクトメールに限らず)一切開封せずに捨てていた[16]。また、後年「僕の名前は團であって団ではないのだから、他人宛ての手紙は読んでは悪かろうと遠慮するからである」と捨てる理由を説明している[17]。
たびたび訪中したが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}團という字に中国語で卑猥な意味があるため[要出典]、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われた。中国で野間宏の『真空地帯』が上映された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直された。
先天色覚異常を持っており、小学生の頃に写生の時間に赤い花を緑に描いて教師から激しく叱責されたことがある[18]。また東京音楽学校の入試に際して、担当の校医が美術学校の入試をも受け持っていたため、色覚異常の故に危うく落とされそうになったが、團の懇願で入学が許されたこともある。色覚異常者への差別に憤り、「日本色盲協会」の結成を考えたとも述べている。[要出典]
犬嫌いであり、無駄に吠える犬には、それがたとえ友人の飼い犬でも容赦せず体罰を加えた。タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断った旨を『パイプのけむり』で言及している。好きな動物は蛇で、自宅で飼育していた大蛇が息子の喉に咬みついて大怪我をさせたこともある。[要出典]
戦後まもなく、太宰治の作品を愛読していたため、友人の北山冬一郎(詩人)の紹介で太宰に会う話が持ち上がった。しかし、ダンという苗字から檀一雄を連想した太宰が「ダンという名前なら大酒飲みだろう」と言ったところ、北山が「いや、実は一滴も飲めないんです」と答えたため、太宰が「酒も飲めない奴なんかに用はない」と断った。そのため、とうとう太宰に会うことができなかった。[要出典]
エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2000年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いている。結局、雑誌休刊の翌年に死去する。
團は生前九州を愛したが、それは父が福岡県の民放KBCの会長を務め、妹がブリヂストンの創業者一族に嫁いだこととも関係する。実はどちらも久留米市で産声を上げた企業であり、そのことが『筑後川』作曲につながっていったとも考えられる。2007年1月20日、團死亡の地・蘇州で、七回忌記念『筑後川』コンサートが開かれ、日本から参加したアマチュア合唱団員200人が、『筑後川』を歌い上げた。
愛煙家で、パイプを好んだ。1950年代、イギリスに留学していた團は、英語の勉強のために、当時ベストセラーだった『野生のエルザ』をはじめ、いくつかの書物の翻訳をしていた。その中には、パイプの修理に立ち寄ったダンヒル本店で見つけた、アルフレッド・H・ダンヒルの“The gentle art of smoking"(日本語タイトル『ダンヒルたばこ紳士』)がある。
小説も著したことがある。『日向村物語』は映画『馬鹿が戦車でやって来る』などの「馬鹿シリーズ」の原案となり、この作品では團自身が原作者としてクレジットされる他にも映画音楽を担当している。
オペラ『聴耳頭巾』の自筆総譜は、いったん紛失したが、1978年2月に発見された。総譜の書かれた五線紙は、山田耕筰のネーム入りで、晩年の山田から團が譲り受けたものであった[19]。
北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書『バーンスタイン物語』)が神奈川県鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に『美幌農業高校校歌』作曲を依頼した。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年『美幌町町歌』作曲)に自宅を提供して同県横須賀市に移住した。
1963年に八丈島に仕事場を建て[20]、しばしば作曲のために長期滞在したが、そこでの趣味は京野菜の栽培。テレビでのインタビューでは「京野菜が栽培できる南限を探っている」と応えた。
自身作曲の童謡『ぞうさん』が低俗な歌詞をもって歌わされていたことに腹を立てていた[21]。
家族・親族