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明治2年3月4日(1869年4月15日)、京都で開催された?議事院上局会議において大隈重信は「親指と人差指の先で丸をつくると三歳の童児でもそれが貨幣を意味していることがわかる」と発言したとされ、このことが「圓」の名称は円形の新貨幣の形状に由来しているとの俗説を生んだとされるが[5]、先の銀圓の由来からすれば単に俗説として切って捨てるべきものでもない。また『古事類苑』には「一両ヲ一圓…ト云フガ如キハ、徳川時代、漢字書生間ノ通語ナリキ」と記されているように、江戸時代後期には一部の知識人の間で両を圓と呼ぶ風習が普及していたという[1][5]。新貨幣の通貨単位として「圓」が採用されることとなり、この日付は明治2年3月4日とされる。しかしその議決書には「…各国通行ノ制ニ則リ百銭ヲ以テ一元ト定メ…」と記されていた[6]

また圓は「Yen」と表記されるが、なぜ「En」でなかったかは定かでない。しかし「En」では「イン」と発音される恐れがある、「十円」を「Ten en」と表記すると「テネン」と発音される恐れがある、あるいは三文字とした方が安定感があるとの説がある[1]

明治2年7月12日(1869年8月19日)の高輪談判では日本政府は近代貨幣制度に移行することを確約した。明治3年11月12日(1871年1月2日)太政官裁定において、一圓銀貨を本位貨幣、金貨その他を補助貨幣とする案がまとめられたが、明治3年12月29日(1871年2月18日)、アメリカに出張中の伊藤博文は、「現在、世界の大勢は金本位に向かいつつあり」と伊達宗城大蔵卿に対し建言し、金本位制が採用されることとなった。

明治4年5月10日(1871年6月27日)には近代的な貨幣制度を定めた新貨条例が制定された。新貨条例において、新貨幣の呼称は圓を以て起票とし、一圓金を原貨と定め一圓金は1.5グラムの純金を含むことが規定された。通貨補助単位は圓の1/100が「錢(Sen)」、1/1000が「厘(Rin)」であった。また貿易取引専用に香港の一圓銀貨と同じ量目、品位の貿易一圓銀が発行された。すなわち新貨条例には2つの「圓」が規定され、当初貿易一圓銀100圓は金貨101圓に等価と定められた。旧一両は新貨幣一圓と等価に定められ、通貨単位の移行は比較的スムーズなものとなった。

明治30年(1897年)10月1日に施行された貨幣法では「純金ノ量目二分(0.2匁、0.75グラム)ヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト称ス」と金平価が半減することとなった。

第二次世界大戦の敗戦による戦後インフレーション対策として昭和21年(1946年)3月3日には新円切替が実施された。昭和21年(1946年)11月16日には国語審議会常用漢字表を作成し、「圓」は新字体では「円」と表記されることとなり、硬貨では昭和23年(1948年)発行の一円硬貨および五円硬貨日本銀行券では昭和25年(1950年)発行の千円紙幣より「円」の表記となった。中華圏では、「日圓」あるいは「日元」と表記される。
韓国半圜銀貨、1905年壹圓(1円)紙幣、1932年

朝鮮半島においては1892年まで、常平通寶(葉銭)一文銭および折二銭(二文銭)、その他、五文、十文などの大型銭が流通していた。

開国492年(1883年)には近代的幣制を施行するため典圜局が設立され、旧来の1000文を一圜(Warn、Whan)に等価と定め、開国497年(1888年)から量目416グレーン、品位90%の一圜銀貨、およびその補助貨幣である1/5圜に相当する一兩銀貨(Yang)などの発行が始まった。

光武元年(1897年)、大韓帝国が成立し、光武6年(1902年)には1圜(?、Won) = 100銭(Chon)と通貨単位が改正された。この?は、朝鮮語で図形の円を表す文字である。光武9年(1905年)6月からは大阪造幣局において韓国の貨幣の製造を請負うこととなった。これらは日本の貨幣と量目、品位が同一で、図案も酷似していた。

1910年8月22日の日韓併合後、1911年1月に朝鮮総督は旧韓国貨幣条令に基づく貨幣は今後一切製造せず、将来は日本の貨幣法に基づく貨幣に統一することを申し合わせた。1918年4月1日に韓国において日本の貨幣法が施行された[7]

第二次世界大戦後1945年朝鮮銀行は解体し、アメリカ統治下で大韓民国においては暫定的なウォンが発行され、1950年には韓国銀行が設立されて大韓民国ウォンが発行されるようになった。一方、朝鮮民主主義人民共和国ではソビエト連邦統治下で1947年12月6日に日本統治時代の通貨と置き換える形で朝鮮民主主義人民共和国ウォンが発行されるようになった。中華圏ではそれぞれ「韓圓(韓元)」、「朝鮮圓(朝鮮元)」と表記される。
中国光緒元寶、七銭二分、1904年壹圓銀貨、1914年壹圓銀貨、1933年

18世紀以降、清国では従来の銀錠に加えて、メキシコから流入したメキシコドルが流通し始めたが、1890年には広東造幣廠が設立され、メキシコドルとほぼ等しい量目七銭二分(26.86グラム)、品位90%の光緒元寶が発行されるようになった。これは中央政府が発行するものではなく、各省政府による発行であった。さらに、この七銭二分は日本の七匁二分に相当し、額面ではなく量目を表すものであった。しかしながら両替商らは持ち込まれる銀地金や他地域の銀錠の改鋳手数料により収入を得ていたため、このような計数銀貨の発行は両替商らの抵抗に遭うことになった。

中華民国元年(1912年)1月1日に、孫文により革命が断行され、中華民国が成立した。中華民国3年(1914年)からは袁世凱の肖像と壹圓の文字を刻んだ量目七銭二分(26.86グラム)、品位90%の銀幣が発行された。

中華民国22年(1933年)3月に国民政府廃両改元を布告し、4月6日に秤量貨幣の通貨単位としての銀両は廃止され、銀元が導入された。上海に国民政府中央造幣廠が設立され、銀本位制を定めた銀本位幣鋳造条例に基づく、量目0.715両(26.67g)、品位88%の一元銀幣が発行された。これは表面に孫文の肖像を描くもので「孫文像幣」とも呼ばれた。通貨補助単位は圓の1/10が「角(Chiao)」、1/100が「分(Fen)」、1/1000が「文(Cash)」であった。

中華民国24年(1935年)11月4日、国民政府は幣制改革を断行し、銀本位制は廃止され管理通貨制度となり、法幣一元=イギリス1シリング2.5ペンス固定相場制となった。

日中戦争後、中華民国政府の中国国民党軍と中国共産党との間で国共内戦が起こった。この間に法幣が多量発行され激しいインフレーションとなった。中華民国38年(1949年)12月7日に国民政府は台湾へ移転し、中華民国37年(1948年)12月1日から中国共産党により設立されていた中国人民銀行が発行する人民元(Yuan、CNY)が中国本土に流通することとなった。通貨補助単位は元の1/10が「角(Jiao)」、1/100が「分(Fen)」となった。
台湾台湾銀行券引換元圓銀伍角銀貨、1949年壹圓洋銀貨、1973年

台湾においても中国本土と同様にメキシコドルなど大型銀貨が流通していたが、1870年代以降は日本の一圓銀貨も流入し始め次第にシェアを拡大していき、刻印の打たれたものは「粗龍銀」、打たれていないものは「光龍銀」と呼ばれて流通していた。

しかし1897年に日本が金本位制を主軸とする貨幣法を施行してから一圓銀貨の製造は停止され、日本国内では1898年4月1日限りで廃貨となり、日清戦争以降日本の支配下にあったためこの一圓銀貨の廃止は台湾に多大な影響を与えるものであった。そこで暫定措置として1897年10月22日から、一圓銀貨に丸銀を打ったものを台湾に回送して公納および政府の支払いに用いることを認めた。しかし丸銀の刻印の有無により通用の可否が決まるということでは混乱を招くため、11月21日からは刻印の有無に拘わらず通用を認めた。

1898年7月30日には一圓銀貨は台湾総督の告示する時価において無制限通用となった。1901年からは旧来の一圓銀貨と全く同形式の台湾銀行券引換元圓銀が製造され台湾に回送されることとなった。しかし銀相場は不安定な動向であったため1911年4月1日に、台湾にも日本の貨幣法が施行された[7]

中華民国38年(1949年)6月15日から、国共内戦により台湾に逃れてきた中華民国政府により新台湾ドルが発行されることとなった。この通貨単位の表記は旧来からの「圓」が現在も引き継がれている。

通貨の補助単位として1圓(ドル、元、Yuan、NT/NTD)の1/10の10セントは「角(Chiao)」と表記する。
澳門壹圓(1パタカ)銀貨、1952年伍圓(5パタカス)銀貨、1971年

1513年マカオポルトガル人が到来してとの交易に乗り出し、マカオに居留地を確保した。香港がイギリスの植民地となったのに引き続き、1845年にポルトガルも「マカオ自由港」を宣言して、1849年にマカオを植民地化した。

マカオにおいてもメキシコドルを始めとする銀圓が広く流通していたが、1905年大西洋銀行からマカオ・パタカが発行されることとなった。独自の貨幣は1952年より発行された。


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