國粹会
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博徒や土建業者系の壮士を中心とする全国的規模の右翼団体であり、そのため、超党派的純国家主義思想団体として、皇室中心主義、大アジア主義等や伝統の侠客道を根本信条として行動することを原則とした[6]
創立時役員

創立当時、総裁は伯爵大木遠吉貴族院議員帝国公道会の設立に深く関与。翌年、原内閣司法大臣)、会長は自由民権家村野常右衛門(立憲政友会幹事長)、理事長を中安信三郎、幹事長は胎中楠右衛門が務め、会員数60万と称した[4]


大木遠吉(総裁)村野常右衛門(会長)中安信三郎(理事長)床次竹二郎(世話役)頭山満(顧問)

砂子川の死去

1920年(大正9年)1月15日大日本国粋会結成の呼び掛け人であった、京都伏見の任侠・西村伊三郎(砂子川)が死去。
大阪本部の創設

1920年(大正9年)12月15日、大阪の任侠・橘利八の尽力により住吉大社の神前で結血式を挙げ、天王寺公園に集合。その後、大阪中之島公園に移動して大阪本部の発会式を挙げた。会長は住吉神社宮司津守國榮男爵、副会長に樋口代議士、長谷部陸軍大佐、顧問に池松時和大阪府知事、田中警察部長、池上四郎大阪市長関一助役、町田師団長、佐多愛彦医大学長、岸本弁護士会長らが就任した[注 4]。会員数は1万人[注 4]


津守國榮男爵(会長)池松時和大阪府知事池上四郎大阪市長(顧問)助役(顧問)佐多愛彦医大学長(顧問)

河合組の離反

1921年(大正10年)1月[8]河合徳三郎は立憲政友会の介入に反発して[9]大日本国粋会を脱会し、対立する立憲民政党の後ろ盾のもとに、後藤新平を顧問として大和民労会を結成した。大和民労会の結成式は、浅草伝法院で行われ、約5000人が集まった。大和民労会の中心メンバーは、土建業系博徒の関根賢高橋組高橋金次郎組長、城迫正一であった。それぞれが、浅草、吉原向島下谷を地盤としていた。
左翼勢力の台頭による社会不安

1921年(大正10年)の中国共産党の成立、1922年(大正11年)の日本共産党の成立により社会主義共産主義を唱える勢力が台頭し、世界的な社会不安を増大させた。
西京支部

材木運送業を営む「荒虎」こと笹井三左衛門が荒虎千本組を組織し、大日本国粋会西京支部の代表を務めた。

笹井三左衛門の死後、長男で荒虎千本組組長・笹井静一が西京支部の代表を務めた。荒虎千本組は、現在の会津小鉄会の直参にあたる。
地盤抗争

1922年(大正11年)12月、大日本国粋会田甫一家の青沼辰三郎が浅草区千束町で年忘れの賭場を開帳。大和民労会の高橋組の木村は、青沼辰三郎の賭場に乗り込み、この地域は大和民労会の地盤であるとの見解を述べ青沼を罵倒した。青沼辰三郎たちは、木村を賭場の外に連れ出し、暴行を加えた。これを切っ掛けに大和民労会と大日本国粋会の抗争事件が勃発した。
水国事件

1923年(大正12年)3月17日奈良県磯城郡川西村下永(現・川西町下永)で起きた事件。婚礼道具が運ばれる道中、森田熊吉が行った指のしぐさに対し水平社の者が、差別的行為であると一方的に糾弾、私的謝罪ではなく公的謝罪を要求したため騒動となる。老人は誠意を尽くしたが容れられず、大日本国粋会の幹部であった土建業者・中西常蔵に相談。中西は水平社に和解を求めるが、水平社はこれを拒否して、中西も糾弾。一触即発の状況に発展し、双方とも奈良県内外から援軍を動員。3月18日朝、国粋会勢は日本刀、鳶口、拳銃で武装して鏡作神社へ集まり、水平社勢は竹槍で武装し光明寺へ集結。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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