1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災による混乱から総本部を京都に移したが、関東本部(関東國粹会)と対立する内紛となった。1925年(大正14年)、大和民労会と大日本国粋会は、抗争事件を起こし、両者合わせて160人が検挙された。
1926年(大正15年)5月12日、金沢市で開かれた大日本国粋会の本部支部長会議の挨拶では村野会長が鶴見騒擾事件に触れ、「任侠義気の精神によるもので、善導すれば現代に応用でき、国家が元気になる」とし「むしろあんな党派(イタリアのファシスタ党)の出現を防止するために起こっているようなもの」と国粋会がヨーロッパのファシズムに反対する立場であることを述べた[13]。 1927年(昭和2年)10月、関東本部(関東國粹会)と地盤協定を結び和解。大日本国粋会の総本部を東京市麹町区(現・千代田区)下二番町へ移転させた。1928年(昭和3年)1月、警視庁官房主事の大久保の斡旋で関東國粹会との抗争は正式に手打ちとなった。以後、両者は「不即不離」の関係となる。 1929年(昭和4年)に鈴木喜三郎が総裁となり、村野会長の没後は高橋光威が会長に推されたが、中安理事長が会長に就任した。 大日本国粋会大阪本部は、大阪府大阪市天王寺区真法院町91番地に国粋社を設立。更に大阪を本社として、東京支社と福岡支社を設けた。1930年(昭和5年)11月5日、第三種郵便物認可を経て、翌年2月より毎月1日月刊誌として機関誌『国粋』発行[14]。 1931年(昭和6年)4月1日、国粋社発行の『国粋』によると、大阪国粋会顧問(大日本国粋会総本部理事長)・中安信三郎、同顧問(大日本国粋会総裁秘書長)・堀川辰吉郎、賛助員(大阪)・折島瀧之助、小倉政吉、村井金三郎、鳶梅吉、山村森蔵、賛助員(岸和田)・伊東由松、賛助員(三重県)・角田久吉、賛助員(石川県)・河合久太郎らの名がみられる[14]。 機関誌の内容は「国粋時論」から始まり、 などであった[14]。船越光之丞は、旧広島藩士・船越衛の長男で、船越衛は慶応3年5月21日、京都で中岡慎太郎の仲介によって、西郷隆盛、板垣退助らの間で結ばれた薩土討幕の密約の前段階の協議に参加した勤皇志士である[4]。 1932年 (昭和7年)1月6日、力士・天竜が大日本相撲協会の体質改革を目指して春秋園事件を起こすと、大日本相撲協会は、1月12日、関東國粹会に調停を依頼。相撲協会に造反した新興力士団30名が2組になって一斉に断髪式を行い、切り落とした髷を白紙に包み後援会員が代表して関東国粋会の本部へ陳謝状と共に届けた。この時、天竜本人への調停は不調に終わり、天竜らはその後、大阪角力協会(大日本関西相撲協会)を立ち上げるが、次第に苦境に立つ。天竜は、自分に従って東京角力協会を離脱した若い衆たちの協会復帰を模索。1936年(昭和11年)、大東流合気柔術の継承者・久琢磨を通じて国粋会の顧問・頭山満に会い、関東國粹会会長へ詫びを入れた上で出羽海への仲介を依頼。頭山はこの取り纏めを引受ける条件として、高知・板垣会館の建設資金捻出のため大阪で「板垣伯報恩相撲」を興行するよう要請。その結果、1937年 (昭和12年)1月17日、天竜らは梅田阪急百貨店横に特設された土俵で「板垣伯報恩相撲」を興行し資金を送った。同年4月6日、板垣会館は頭山満を主賓に迎えて落成し、天竜らも同年夏場所を最後とし、12月に大阪角力協会(大日本関西角力協会)を解散。若い衆を大日本相撲協会へ復帰させ、自らは責任を取って廃業した[16]。 1935年(昭和10年)、大日本国粋会第3代総裁に堀川辰吉郎が就任したとされる説がある[17]。
関東本部との和解
大日本国粋会二代目
国粋社設立と機関誌の発行
『憂國の士に協同一致を望む』公爵・一条実孝著
『國粹會の本領』今北治作著
『世界大勢はどう動くか』満川亀太郎著
『満蒙経営と我が人口問題』樺山資英著
『満蒙権益を擁護せよ』船越光之丞著(広島藩士・船越衛の長男)
『大陸的英雄出でよ』雑賀博愛著
『日本爆破を目的とする不逞無産党の大陰謀』社説
『日本は赤化するか』社説
『赤露の五ヶ年計画』双刃剣生著
『労働争議の裏面観』紫雲仙人著
『男の中の男・堀川辰吉郎君』KS生[15]著
春秋園事件と板垣会館建設「春秋園」の一室での天竜
大日本国粋会三代目総裁
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