国際連盟
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1919年6月28日、44か国が規約に署名した[40][41]

連盟は、全加盟国を代表する総会、大国に限定された執行委員会、そして常設の事務局で構成される。加盟国は、ほかの加盟国の領土保全を尊重し、外部からの攻撃に対抗して保全することと、国内の安全に合致する最低限度のレベルまで武装解除することが求められた。すべての国は、戦争を始める前に、仲裁または司法調査(英語版)のために申し立てすることが義務づけられた[24]。執行理事会は、紛争を裁く常設国際司法裁判所を設立した。

ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績により1919年10月にノーベル平和賞を受賞した[42]。しかし、そのアメリカ合衆国は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジウィリアム・ボーラなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。ロッジらは国際連盟規約第10条および16条で規定された「戦争を行った国家は、ほかの連盟国すべてに戦争行為をしたとみなし、当該国との通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場合、連盟国に制裁として軍事行動を義務づける」という条文により、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧し、反対に回った[43]。ウィルソンが妥協を許さなかったため、加盟に必要な3分の2の賛成を得られず、アメリカは連盟に加盟しないこととなった[44]

国際連盟は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約が発効した6日後の1920年1月16日パリで第1回理事会を開催した[45]。1920年11月1日、国際連盟の本部はロンドンからジュネーヴに移され、11月15日には第1回総会が開催された[46][47]。ジュネーブの西湖畔にある連盟の最初の本部は、連盟設立に尽力したウッドロウ・ウィルソン米大統領にちなんで「パレ・ウィルソン(英語版)」と名付けられた。
言語とシンボル

国際連盟の公用語はフランス語英語だった[48]

1939年、国際連盟の半公式紋章が制定された。青い五角形の中に2つの五芒星を描いたもので、地球上の5つの大陸と「5種類の人種(英語版)」[注釈 2]を象徴するものである。マークの上には英語名(League of Nations)、下にはフランス語名(Societe des Nations)が書かれた[49]
機関詳細は「en:Organisation of the League of Nations」、「常設国際司法裁判所」、および「en:List of leaders of the League of Nations」を参照国際連盟の組織図[50]1936年から1946年に解散するまで連盟の本部だったジュネーヴのパレ・デ・ナシオン

連盟の主な構成機関は、総会、理事会、常設事務局だった。また、常設国際司法裁判所国際労働機関という2つの主要組織があった。その他に、いくつかの補助機関や委員会があった[51]。各機関の予算は総会で配分されていた。連盟の運営資金は加盟国が負担していた[52]
主要機関

総会と理事会の関係、およびそれぞれの権限は、明確に定義されていなかった。総会と理事会は、世界の平和に影響を与えるあらゆる問題を、連盟の権限の範囲内で扱うことができた。総会と理事会は、特定の問題や任務をもう一方に委ねることもできた[53]

総会と理事会の議決には、手続事項や新規加盟国の加入などの特定の場合を除き、全会一致が求められていた。この要件は、連盟が構成国の主権を信じていることの反映であった。連盟は口述による解決ではなく、同意形成による解決を求めた。紛争の場合には、紛争当事者の同意は必要なかった[54]
事務局

常設事務局はジュネーヴの連盟本部に設置され、さまざまな分野の専門家で構成され、事務総長が指揮をとっていた[55]。事務局の主な部門には、政治、財政・経済、交通、少数民族と行政(ザールダンツィヒの管理)、職務権限、軍縮、保健、社会(アヘン、女性や子供の人身売買)、知的協力と国際事務局、法律、情報があった。事務局の職員は、理事会や総会の議題を作成したり、会議の報告書を発行したり、その他の日常的な事項を担当しており、事実上、連盟の公務員のような役割を果たしていた。1931年の時点で、事務局には707人の職員がいた[56]
歴代事務総長

代氏名出身国就任年月日退任年月日
1
エリック・ドラモンド
James Eric Drummond イギリス1920年(大正9年)1月10日1933年(昭和8年)6月30日
2ジョセフ・アヴェノル
Joseph Louis Avenol フランス1933年(昭和8年)7月3日1940年(昭和15年)8月31日
3ショーン・レスター
Sean Lester アイルランド1940年(昭和15年)8月31日1946年(昭和21年)4月18日

日本の歴代事務次長

順氏名就任年月日退任年月日
1
新渡戸稲造
1920年(大正9年)1月10日1926年(大正15年)12月6日
2杉村陽太郎
1927年(昭和2年)1月19日1933年(昭和8年)3月27日[57]

総会

総会は、連盟加盟国の代表で構成され、1か国につき3名の代表と1票の投票権が認められていた[58]。総会はジュネーヴで開催され[59]、1920年の第1回会議以降、毎年9月に開催された[58]。総会の特別な機能として、新規加盟国の受け入れ、非常任理事国の定期的な選出、常設法廷の判事の選出、予算の管理などがあった。実際には、総会が連盟の活動の総指揮をとっていた[60]

フランスなどは、総会に出席する代表代理や補佐などを十数人の国会議員で固めた一方、日本はヨーロッパ各国の駐在する大使外交官で固めた。このことについて、当時の新聞は「日本は例により旧式の外交官ばかり連ねた」として批判した[61]
理事会

理事会は、総会の決定を執行する機関として機能していた[62]。理事会は常任理事国と、3年の任期で総会で選出される非常任理事国で構成された。設立当初の常任理事国は4か国(イギリスフランスイタリア日本)、非常任理事国は4か国であり[63]、最初の非常任理事国はベルギーブラジルギリシャスペインだった[64]

理事会の構成は何度か変更された。非常任理事国の数は、1922年9月22日に6か国、1926年9月8日に9か国となった。


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