国際連盟
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ブライスグループの提言は、イギリスとアメリカで広く流布され、始まったばかりの国際運動に大きな影響を与えた[25]平和施行同盟(英語版)は、1918年のクリスマスに『ニューヨーク・タイムズ』紙に全面広告を掲載した[26]。平和施行同盟は、「不和の原因を排除し、平和的手段で論争を解決し、全加盟国の潜在的な力を結集して、世界の平和を乱そうとするいかなる国に対しても常在の脅威として、平和を確保すべきである」と決議している[26]

1915年、アメリカでも、ブライス・グループの提案と同様の組織がウィリアム・タフトらによって設立された。この組織は「平和施行同盟(英語版)」と呼ばれ、実質的にはブライス・グループの提案をベースにしたものであった[27]。この組織は、紛争解決には仲裁を利用し、攻撃的な国には制裁を加えることを提唱していた。これらの初期の組織はいずれも、継続的に機能する組織を想定しておらず、国際機関を裁判所に限定するような法治主義的なアプローチを取っていた。例外はイギリスのフェビアン協会で、大国を中心として世界の問題を解決する「評議会」や、さまざまな活動における国際協力を強化するための「常設事務局」の設置を最初に主張した[28]

第一次世界大戦をめぐる外交活動(英語版)の中で、両陣営は長期的な戦争目的を明確にしなければならなかった。連合国のリーダーであるイギリスと中立国のアメリカでは、1916年までに、将来の戦争を防ぐための統一的な国際組織を設計するための長期的な考え方が始まっていた。歴史学者のピーター・イヤーウッドは、1916年12月にロイド・ジョージ内閣(英語版)が発足したときには、知識人や外交官の間で、このような国際組織を設立することが望ましいという議論が広まっていたと主張している。ロイド・ジョージは、ウィルソンから戦後の状況を視野に入れた立場を表明するよう求められたとき、このような組織の設立を支持した。ウィルソン自身も、1918年1月に発表した「十四か条の平和原則」の中に、「平和と正義を確保するための国家同盟」を盛り込んでいた。イギリスのアーサー・バルフォア外相は、永続的な平和の条件として、「国際法の背後に、敵対行為を防止または制限するためのすべての条約上の取り決めの背後に、もっとも強硬な侵略者を躊躇させるような何らかの国際的制裁措置を考案すべきである」と主張した[29]

この戦争は、ヨーロッパの社会・政治・経済に大きな影響を与え、精神的・物理的なダメージを与えた[30]。1917年2月にロシア帝国が崩壊したのを皮切りに、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国と、いくつもの帝国が崩壊していった。世界中で反戦の気運が高まった。「戦争を終わらせるための戦争[31]と呼ばれていた第一次世界大戦の原因究明が盛んに行われ、その原因として、軍拡競争、同盟関係、軍国主義的ナショナリズム、秘密外交、主権国家が自国の利益のために戦争をする自由などが挙げられた。そこで、軍縮、公開外交、国際協力、戦争をする権利の制限、戦争をしないようにするための罰則などにより、将来の戦争を防ぐことを目的とした国際組織の設立が提案された[32]

1918年初めにイギリスのバルフォア外相は、ロバート・セシル卿の主導によるこの問題に関する最初の公式報告書を依頼した。次いで、イギリスの委員会が1918年2月に任命された。この委員会は、ウォルター・フィリモア(英語版)を中心に、エア・クロウ(英語版)、ウィリアム・ティレル(英語版)、セシル・ハースト(英語版)らが加わったもので、のちにフィリモア委員会と呼ばれるようになった[24]。フィリモア委員会が出した提案は、紛争を仲裁し、違反国に制裁を加える「連合国会議」を設立するというものだった。この提案はイギリス政府に承認され、委員会の成果の多くはのちに国際連盟規約に盛り込まれた[33]

また、フランスは1918年6月により広範囲な提案を起草した。その中では、すべての紛争を解決するための評議会の年次会合と、その決定を執行するための国際軍が提唱されていた[33]1918年12月にヨーロッパを訪れたウッドウ・ウィルソンは、「平和の実現と国際連盟の創設は、一つの目的として達成されなければならないことを再確認した」と演説した[34]

アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領はエドワード・M・ハウス大佐に対し、「十四か条の平和原則」で初めて示した自身の理想主義的な考えと、フィリモア委員会の活動を反映したアメリカの計画を起草するよう指示した。ハウスの作業とウィルソン自身の初稿で、スパイ活動や不正行為を含む「非倫理的」な国家行動を排除することが提案された。不従順な国家に対する強制手段としては、例えば、「その国の国境を封鎖して、世界のどの地域とも通商や交流ができないようにし、必要な武力を行使する...」などの厳しい措置が含まれた[33]

主に国際連盟規約を起草したのは[35]、イギリスの政治家ロバート・セシル卿と南アフリカの政治家ヤン・スマッツの2人だった。スマッツは、大国を常任理事国、小国を非常任理事国とする理事会の創設や、中央同盟国の植民地の委任統治の制度の創設を提案した。セシルは行政面に重点を置き、年1回の理事会と、4年に1回の全加盟国による議会を提案した。また、連盟の管理業務を遂行するために、大規模で常設の事務局を設けることを主張した[33][36][37]
設立国際連盟理事会の第1回会合は、1920年1月16日にパリの外務省のSalle de l'Horloge(時計の間)で開催された。

1919年パリ講和会議では、ウィルソン、セシル、スマッツの3人がそれぞれの草案を提出した。代表者間の長い交渉の末、セシル・ハーストとデイヴィッド・ハンター・ミラー(英語版)が共同で執筆した予備的な草案を元に検討が進められた[38]。さらに交渉と妥協を重ね、1919年1月25日、代表団は最終的に国際連盟創設の提案を承認した[39]。最終的な国際連盟規約は特別委員会によって起草された。ヴェルサイユ条約サン=ジェルマン条約トリアノン条約ヌイイ条約セーヴル条約の第1編に国際連盟規約が含められた。1919年6月28日、44か国が規約に署名した[40][41]

連盟は、全加盟国を代表する総会、大国に限定された執行委員会、そして常設の事務局で構成される。加盟国は、ほかの加盟国の領土保全を尊重し、外部からの攻撃に対抗して保全することと、国内の安全に合致する最低限度のレベルまで武装解除することが求められた。すべての国は、戦争を始める前に、仲裁または司法調査(英語版)のために申し立てすることが義務づけられた[24]。執行理事会は、紛争を裁く常設国際司法裁判所を設立した。

ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績により1919年10月にノーベル平和賞を受賞した[42]。しかし、そのアメリカ合衆国は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジウィリアム・ボーラなどモンロー主義を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。ロッジらは国際連盟規約第10条および16条で規定された「戦争を行った国家は、ほかの連盟国すべてに戦争行為をしたとみなし、当該国との通商、金融、交通を禁じ、連盟理事会の決定に従わなかった場合、連盟国に制裁として軍事行動を義務づける」という条文により、他国同士の紛争にアメリカが巻き込まれることを危惧し、反対に回った[43]。ウィルソンが妥協を許さなかったため、加盟に必要な3分の2の賛成を得られず、アメリカは連盟に加盟しないこととなった[44]

国際連盟は、国際連盟規約を含むヴェルサイユ条約が発効した6日後の1920年1月16日パリで第1回理事会を開催した[45]。1920年11月1日、国際連盟の本部はロンドンからジュネーヴに移され、11月15日には第1回総会が開催された[46][47]


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