国際連盟
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「国家間の平和のための共同体」という概念は、初期にはイマヌエル・カント1795年の著書『永遠平和のために[12] で、国家間の紛争を抑制し、平和を促進するための国家連合体の設立を主張した[13]。カントは平和のための世界共同体の構築を主張したが、それは世界政府という意味ではなく、各国家が自国民を尊重し、外国からの訪問者を同じ理性的な存在として迎え入れる自由な国家であることを宣言することで、世界の平和な社会を促進することを願っていた[14]集団安全保障を推進するための国際協力は、19世紀のナポレオン戦争のあと、ヨーロッパ諸国間の現状を維持し、戦争を回避するために展開されたヨーロッパ協調に端を発している[15][16]。また、この時代には国際法が整備され、ジュネーヴ条約では戦時中の人道的救済に関する法が制定され、1899年と1907年のハーグ条約では戦争のルールと国際紛争の平和的解決が規定された[17][18]。歴史学者のウィリアム・H・ハーボーとロナルド・E・ポワスキー(英語版)が指摘するように、セオドア・ルーズベルトはアメリカ大統領として初めて国際的な連盟の設立を呼びかけた[19][20]。ルーズベルトは、1906年にノーベル賞を受賞した際に、「誠実に平和を願う大国が平和連盟を結成してくれれば、それは素晴らしいことである」と述べている[21][22]

国際連盟の前身である列国議会同盟(IPU)は、1889年に平和運動家のウィリアム・ランダル・クリーマーフレデリック・パシーの提唱により結成された(この組織は、現在も世界各国の立法機関を中心とした国際機関として存続している)。IPUは、国際的な視野に立って設立された。1914年には、加盟24か国の議会議員の3分の1がIPUのメンバーとなっていた。IPUの設立目的は、各国政府が国際的な紛争を平和的手段で解決することを奨励することだった。また、各国政府が国際仲裁のプロセスを改善するための年次会議も開催された。IPUの構造は会長を頂点とした評議会方式であり、これはのちに設立された国際連盟の構造に反映されることになる[23]
初期の提案.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}国際連盟を早くから提唱していたブライス卿国際連盟規約の起草に貢献したヤン・スマッツ

第一次世界大戦が勃発すると、将来の戦争を防ぐための国際的な組織の構想が、イギリスやアメリカを中心に世間の支持を集め始めた。1914年、イギリスの政治学者ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンは、"League of Nations"(国際連盟)という言葉を作り、その組織化のための計画を立案した。ディキンソンはブライス卿とともに、国際的な平和主義者の集まりであるブライス・グループ(英語版)(のちの国際連盟連合(英語版))の設立に主導的な役割を果たした[24]。このグループは、また当時政権を握っていた自由党内の圧力団体として、一般市民の間で着実に影響力を増していった。ディキンソンは1915年に出版したパンフレット "After the War の中で、自分の「平和連盟」は本質的に仲裁と調停のための組織であると書いている。ディキンソンは、20世紀初頭の秘密外交によって戦争が引き起こされたと考えており、パンフレットにも「外交政策の問題が世論に知られ、コントロールされるようになれば、それに比例して戦争の不可能性は増すだろうと私は信じている」と書いた。ブライスグループの提言は、イギリスとアメリカで広く流布され、始まったばかりの国際運動に大きな影響を与えた[25]平和施行同盟(英語版)は、1918年のクリスマスに『ニューヨーク・タイムズ』紙に全面広告を掲載した[26]。平和施行同盟は、「不和の原因を排除し、平和的手段で論争を解決し、全加盟国の潜在的な力を結集して、世界の平和を乱そうとするいかなる国に対しても常在の脅威として、平和を確保すべきである」と決議している[26]

1915年、アメリカでも、ブライス・グループの提案と同様の組織がウィリアム・タフトらによって設立された。この組織は「平和施行同盟(英語版)」と呼ばれ、実質的にはブライス・グループの提案をベースにしたものであった[27]。この組織は、紛争解決には仲裁を利用し、攻撃的な国には制裁を加えることを提唱していた。これらの初期の組織はいずれも、継続的に機能する組織を想定しておらず、国際機関を裁判所に限定するような法治主義的なアプローチを取っていた。例外はイギリスのフェビアン協会で、大国を中心として世界の問題を解決する「評議会」や、さまざまな活動における国際協力を強化するための「常設事務局」の設置を最初に主張した[28]

第一次世界大戦をめぐる外交活動(英語版)の中で、両陣営は長期的な戦争目的を明確にしなければならなかった。連合国のリーダーであるイギリスと中立国のアメリカでは、1916年までに、将来の戦争を防ぐための統一的な国際組織を設計するための長期的な考え方が始まっていた。歴史学者のピーター・イヤーウッドは、1916年12月にロイド・ジョージ内閣(英語版)が発足したときには、知識人や外交官の間で、このような国際組織を設立することが望ましいという議論が広まっていたと主張している。ロイド・ジョージは、ウィルソンから戦後の状況を視野に入れた立場を表明するよう求められたとき、このような組織の設立を支持した。ウィルソン自身も、1918年1月に発表した「十四か条の平和原則」の中に、「平和と正義を確保するための国家同盟」を盛り込んでいた。イギリスのアーサー・バルフォア外相は、永続的な平和の条件として、「国際法の背後に、敵対行為を防止または制限するためのすべての条約上の取り決めの背後に、もっとも強硬な侵略者を躊躇させるような何らかの国際的制裁措置を考案すべきである」と主張した[29]

この戦争は、ヨーロッパの社会・政治・経済に大きな影響を与え、精神的・物理的なダメージを与えた[30]。1917年2月にロシア帝国が崩壊したのを皮切りに、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国と、いくつもの帝国が崩壊していった。世界中で反戦の気運が高まった。「戦争を終わらせるための戦争[31]と呼ばれていた第一次世界大戦の原因究明が盛んに行われ、その原因として、軍拡競争、同盟関係、軍国主義的ナショナリズム、秘密外交、主権国家が自国の利益のために戦争をする自由などが挙げられた。そこで、軍縮、公開外交、国際協力、戦争をする権利の制限、戦争をしないようにするための罰則などにより、将来の戦争を防ぐことを目的とした国際組織の設立が提案された[32]

1918年初めにイギリスのバルフォア外相は、ロバート・セシル卿の主導によるこの問題に関する最初の公式報告書を依頼した。次いで、イギリスの委員会が1918年2月に任命された。この委員会は、ウォルター・フィリモア(英語版)を中心に、エア・クロウ(英語版)、ウィリアム・ティレル(英語版)、セシル・ハースト(英語版)らが加わったもので、のちにフィリモア委員会と呼ばれるようになった[24]。フィリモア委員会が出した提案は、紛争を仲裁し、違反国に制裁を加える「連合国会議」を設立するというものだった。この提案はイギリス政府に承認され、委員会の成果の多くはのちに国際連盟規約に盛り込まれた[33]

また、フランスは1918年6月により広範囲な提案を起草した。その中では、すべての紛争を解決するための評議会の年次会合と、その決定を執行するための国際軍が提唱されていた[33]


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