国際連合
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ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側共産主義)と西側資本主義)が持つイデオロギー性を批判し、1965年から1975年間に行われたベトナム戦争をめぐってリンドン・ジョンソン米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた[42]。また、ベトナム戦争中のアメリカ軍の非人道的な出来事(クラスター爆弾ナパーム弾枯葉剤を使用)により、世界がアメリカ合衆国への不信感が際立った。同時期、非同盟諸国を中心に英仏などの西側、ソ連などの東側の賛成も得てアルバニア決議が採択されて中華民国が追放され、同国と対立する中華人民共和国に常任理事国が交代した。

彼の任期中には、1963年に初の核軍縮条約である部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名され(同年発効)、1968年に核不拡散条約(NPT)が総会で採択される(1970年発効)など、核軍縮への取り組みも始まった。また、彼は宇宙船地球号を掲げて[43]地球環境問題にも取り組み、アースデーの制定と後の国連人間環境会議の開催決定や国連環境計画(UNEP)設立決定に関わる[44][45][46]など国連は新しい任務を負うこととなった。

1972年から1981年までの第4代事務総長クルト・ヴァルトハイムオーストリア出身)の任期中には、1973年第四次中東戦争とそれに対する第二次国連緊急軍(UNEF II)の派遣、キプロス問題の再燃などがあった[47]ゴラン高原方面については、1974年より国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設置された。

1973年には国際連合大学が日本の東京都渋谷区に、1980年には国連平和大学コスタリカに大学を設立、両大学は国連システムおよび国連加盟国シンクタンクとしての機能を持つ。社会経済開発分野では、南北問題も深刻化し、石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸(オイルショック)、1974年の国連資源特別総会の開催に見られるように資源ナショナリズムが高揚した。1981年のカンクンでの南北サミットでは事務総長の努力にもかかわらず南北関係が好転しなかった[47]

1982年から1991年までの第5代事務総長ハビエル・デクエヤルペルー出身)の任期中には、イラン・イラク戦争アフガニスタン紛争ナミビア内戦、アンゴラ内戦などがあり、国連のあっせん・仲介で停戦など一定の成果が上がった[48]。1982年には先住民作業部会が設立されるなど先住民人権及び基本的な自由の促進と保護を重視されるようになった。1988年には将来的な米ソの核戦争回避を行うために中距離核戦力全廃条約を締結した。1989年にはベルリンの壁崩壊による東ドイツの崩壊とドイツ連邦共和国によるドイツ再統一、東欧革命などの一連の出来事によって冷戦の終結した。

1991年7月には共産主義国の国際軍事同盟のワルシャワ条約機構が解散、12月にはソビエト連邦の崩壊によって独立した独立国家共同体(CIS)、バルト三国の国家が国連に加盟した。東側諸国の影響力低下により、事実上のアメリカ合衆国一強時代となった。また、ソビエト連邦(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の後継国としてロシア連邦が常任理事国になった。安保理の平和維持機能が復活し、1991年の湾岸戦争では安保理の武力行使容認決議に基づき多国籍軍が派遣された[48]

1992年から1996年までの第6代事務総長ブトロス・ガリエジプト出身)の任期中には、カンボジア、ソマリアルワンダボスニア(旧ユーゴスラビア)、モザンビークなどに次々PKOが派遣され、ガリ事務総長が1992年の『平和への課題』と題する報告書で訴えたとおり、PKOに平和執行部隊としての機能も期待された。しかし、一定の成果を上げたカンボジアやモザンビークと異なり、ソマリア、ルワンダ、ボスニアではPKOは十分な役割を果たすことができなかった[49]

社会経済開発の分野では1992年、リオデジャネイロ環境と開発に関する国際連合会議(地球サミット)が開かれ、「持続可能な開発」の理念が普及した。1994年、国連開発計画(UNDP)が年次報告書で「人間の安全保障」という理念を提唱した。その他には1996年9月に包括的核実験禁止条約が国際連合総会によって採択されたが、未だに発効してない。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は核拡散防止条約からの脱退を表明したことで国連安保理が北朝鮮への制裁を検討する事態となった。
21世紀第7代事務総長を務めたコフィー・アナン。在任中の2001年にはより平和な世界のための取組みに対してノーベル平和賞を授与された。

1997年から2006年まで第7代事務総長を務めたコフィー・アナンガーナ出身)は、国連の行政改革に取り組み、縦割りを是正するため執行委員会の設置などを行った[50]。彼の任期中には、1998年に国際刑事裁判所(ICC)設立のためのローマ規程が採択されたり(2003年発足)、2000年ミレニアム記念総会(ミレニアム・サミット)で途上国の開発目標などを定める国連ミレニアム宣言が採択されたりした。国連ミレニアム宣言は、8つの章と32の主要目標からなり、サミットにおいて189ヶ国の世界の首脳によって採択された。

2001年、国連はアナン事務総長とともにノーベル平和賞を受賞した[1]。もっとも、イラク民衆救済のための石油食料交換プログラム(1995年-2003年)に関し、国連事務局幹部の不祥事が後に発覚し、アナンの息子が勤めていた会社と国連との不透明な関係も指摘されるなど、事務総長自身の廉潔性も問われることとなった[51]。2001年9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2004年にはマドリード列車爆破テロ事件が発生した。


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