国際連合
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そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が批准した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した[33]。10月24日は国連デーとして各国で記念されている[34]
設立後と冷戦初代国連事務総長のトリグブ・リー

1946年から1953年までの間、初代事務総長を務めたのはトリグブ・リーノルウェー出身)であった。その任期中にはパレスチナ問題が顕在化し、1947年11月29日の総会でパレスチナ分割決議がなされたが、翌1948年から第一次中東戦争に至った。国際連合休戦監視機構(UNTSO)が派遣され、事実上初の国連平和維持活動 (PKO) となった。

1950年には朝鮮戦争が勃発し、安全保障理事会でのソ連不在の間に米国を中心に「国連軍」が派遣される事態となった[35]。国連の目指した集団安全保障は、東西冷戦の狭間で、機能不全に陥った[36]。一方、1948年に世界人権宣言が総会で採択され、1951年には難民条約が採択されて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足するなど、安全保障以外の面での活動も始まっていった。

1953年から1961年までの第2代事務総長ダグ・ハマーショルドスウェーデン出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956年の停戦違反を機にスエズ危機(第二次中東戦争)に至った。安保理は英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEFI)が派遣され、これが初の正式なPKOとなった[37]。他方、1953年のアイゼンハワー米大統領による国連総会での平和のための原子力演説を契機として、1957年国際原子力機関(IAEA)が発足した。1956年には、日本も国連加盟を果たした[注釈 2]

ハマーショルド事務総長の手腕はソ連圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、非加盟国である中華人民共和国を1955年に訪問して朝鮮戦争で捕虜となっていた国連軍兵士の釈放交渉を成功させ[38]、1958年のレバノン事件、タイカンボジアの紛争、ラオス問題などで緊張緩和に努め、「国連のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960年のコンゴ動乱ではPKOとして国連コンゴ活動が展開され、事務総長も調停に努めたが、1961年9月、事務総長は任務遂行中に北ローデシア(現:ザンビア)の飛行機事故で死亡した[39]

1961年から1971年まで第3代事務総長を務めたのはウ・タントビルマ出身)である。これに先立つ1960年の植民地独立付与宣言(総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの植民地が独立を果たし、次々と国連に加盟した。1961年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない非同盟諸国が国連の多数派として出現し、1965年には加盟国の約7割に達した[40]。1962年にはジョン・F・ケネディ大統領とニキータ・フルシチョフ最高指導者の政権下でキューバ危機が発生した。第二次世界大戦後のなかで最も米ソの核戦争第三次世界大戦)開戦一歩手前までの緊張状態に陥った。アメリカ合衆国の軍用機とソ連の貨物船キューバ危機

キューバ危機によって、世界各国にかつてないほどの混乱を招いた。国連では緊急安保理特別会合が午後に開かれ、ウ・タント事務局長は、米ソ両国に書簡を送り自制を求め、核戦争(第三次世界大戦)勃発へのエスカレーションは回避された。この一連の危機の経験は後世の核戦争回避への大きな教訓とされ、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結された。

1964年、第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による77ヶ国グループ(G77)が結成された。77ヶ国グループは、その後も構成国を増やし、国連での投票等で一致した行動をとることによって先進国に対抗する大きな力を有するに至っている[41]

ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側共産主義)と西側資本主義)が持つイデオロギー性を批判し、1965年から1975年間に行われたベトナム戦争をめぐってリンドン・ジョンソン米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた[42]。また、ベトナム戦争中のアメリカ軍の非人道的な出来事(クラスター爆弾ナパーム弾枯葉剤を使用)により、世界がアメリカ合衆国への不信感が際立った。同時期、非同盟諸国を中心に英仏などの西側、ソ連などの東側の賛成も得てアルバニア決議が採択されて中華民国が追放され、同国と対立する中華人民共和国に常任理事国が交代した。

彼の任期中には、1963年に初の核軍縮条約である部分的核実験禁止条約(PTBT)が署名され(同年発効)、1968年に核不拡散条約(NPT)が総会で採択される(1970年発効)など、核軍縮への取り組みも始まった。また、彼は宇宙船地球号を掲げて[43]地球環境問題にも取り組み、アースデーの制定と後の国連人間環境会議の開催決定や国連環境計画(UNEP)設立決定に関わる[44][45][46]など国連は新しい任務を負うこととなった。

1972年から1981年までの第4代事務総長クルト・ヴァルトハイムオーストリア出身)の任期中には、1973年第四次中東戦争とそれに対する第二次国連緊急軍(UNEF II)の派遣、キプロス問題の再燃などがあった[47]ゴラン高原方面については、1974年より国際連合兵力引き離し監視軍(UNDOF)が設置された。

1973年には国際連合大学が日本の東京都渋谷区に、1980年には国連平和大学コスタリカに大学を設立、両大学は国連システムおよび国連加盟国シンクタンクとしての機能を持つ。社会経済開発分野では、南北問題も深刻化し、石油輸出国機構(OPEC)による石油禁輸(オイルショック)、1974年の国連資源特別総会の開催に見られるように資源ナショナリズムが高揚した。1981年のカンクンでの南北サミットでは事務総長の努力にもかかわらず南北関係が好転しなかった[47]


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