国際連合
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コーデル・ハル国務長官がこれを練り直して、同年8月「国際連合憲章(英語: The Charter of the United Nations)草案」を完成させ、ハルは「国連の父」と呼ばれることになる[25][26]

同年7月、イギリスもヨーロッパの安全保障に力点を置いた構想を策定してアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。そして、同年8月にケベックで米英首脳会談が開かれたが、その時点で、米英ソ中の4国が「すべての国の主権平等に基礎を置き、大国小国を問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国際機構」を創設する必要があるとの、後のモスクワ宣言の草案が既に作成されていた[27]

1943年10月にモスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連による外相会議で「一般的安全保障に関する4か国宣言」が出され、ほぼ草案どおりの文言で、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった[28]。同年のカイロ宣言(米英中)、テヘラン宣言(米英ソ)でも、米英ソ中の4大国が「世界の警察官」(「四人の警察官」と呼ぶ事もある。)としての役割を果たすことが合意された[29]

これを受けて、1944年8月?10月、ワシントンD.C.ジョージタウンにあるダンバートン・オークス・ガーデンにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した(ダンバートン・オークス会議)。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された[30]

その後、安保理常任理事国拒否権をどの範囲で認めるかについて、米英とソ連との交渉が続いたが、1945年2月に開催されたヤルタ会談において、大国の拒否権は実質事項のみで、手続事項には適用されないこと、紛争の平和的解決が試みられている間は当事国は表決に加わらないとの妥協が成立した[31]。すなわち、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5か国が拒否権を有する安保理常任理事国となるという「5大国一致の原則」が合意された[32]サンフランシスコ会議の模様

1945年4月25日から6月26日にかけて、日本またはドイツ(なお同国は会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づき審議が行われ、6月26日、50か国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。ポーランドは会議に代表を送っていなかったが、その後国連憲章に署名し、原加盟国51か国の一つとなった。そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が批准した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した[33]。10月24日は国連デーとして各国で記念されている[34]
設立後と冷戦初代国連事務総長のトリグブ・リー

1946年から1953年までの間、初代事務総長を務めたのはトリグブ・リーノルウェー出身)であった。その任期中にはパレスチナ問題が顕在化し、1947年11月29日の総会でパレスチナ分割決議がなされたが、翌1948年から第一次中東戦争に至った。国際連合休戦監視機構(UNTSO)が派遣され、事実上初の国連平和維持活動 (PKO) となった。

1950年には朝鮮戦争が勃発し、安全保障理事会でのソ連不在の間に米国を中心に「国連軍」が派遣される事態となった[35]。国連の目指した集団安全保障は、東西冷戦の狭間で、機能不全に陥った[36]。一方、1948年に世界人権宣言が総会で採択され、1951年には難民条約が採択されて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発足するなど、安全保障以外の面での活動も始まっていった。

1953年から1961年までの第2代事務総長ダグ・ハマーショルドスウェーデン出身)の任期中にも、パレスチナ問題は再燃し、1956年の停戦違反を機にスエズ危機(第二次中東戦争)に至った。安保理は英仏の拒否権により機能停止に陥ったが、事務総長のリーダーシップにより、総会決議に基づいて第一次国連緊急軍(UNEFI)が派遣され、これが初の正式なPKOとなった[37]。他方、1953年のアイゼンハワー米大統領による国連総会での平和のための原子力演説を契機として、1957年国際原子力機関(IAEA)が発足した。1956年には、日本も国連加盟を果たした[注釈 2]

ハマーショルド事務総長の手腕はソ連圏を除く加盟国から絶大な信頼を得、非加盟国である中華人民共和国を1955年に訪問して朝鮮戦争で捕虜となっていた国連軍兵士の釈放交渉を成功させ[38]、1958年のレバノン事件、タイカンボジアの紛争、ラオス問題などで緊張緩和に努め、「国連のプレゼンス」という言葉が国際外交で常用語となった。1960年のコンゴ動乱ではPKOとして国連コンゴ活動が展開され、事務総長も調停に努めたが、1961年9月、事務総長は任務遂行中に北ローデシア(現:ザンビア)の飛行機事故で死亡した[39]

1961年から1971年まで第3代事務総長を務めたのはウ・タントビルマ出身)である。これに先立つ1960年の植民地独立付与宣言(総会決議)に象徴されるように、1960年代には多くの植民地が独立を果たし、次々と国連に加盟した。1961年、第1回非同盟諸国会議が開かれ、米ソいずれの陣営にも属しない非同盟諸国が国連の多数派として出現し、1965年には加盟国の約7割に達した[40]。1962年にはジョン・F・ケネディ大統領とニキータ・フルシチョフ最高指導者の政権下でキューバ危機が発生した。第二次世界大戦後のなかで最も米ソの核戦争第三次世界大戦)開戦一歩手前までの緊張状態に陥った。アメリカ合衆国の軍用機とソ連の貨物船キューバ危機

キューバ危機によって、世界各国にかつてないほどの混乱を招いた。国連では緊急安保理特別会合が午後に開かれ、ウ・タント事務局長は、米ソ両国に書簡を送り自制を求め、核戦争(第三次世界大戦)勃発へのエスカレーションは回避された。この一連の危機の経験は後世の核戦争回避への大きな教訓とされ、2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。そして翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結された。

1964年、第1回国連貿易開発会議(UNCTAD)が開かれ、そこで途上国による77ヶ国グループ(G77)が結成された。77ヶ国グループは、その後も構成国を増やし、国連での投票等で一致した行動をとることによって先進国に対抗する大きな力を有するに至っている[41]

ウ・タント事務総長も、非同盟主義に共鳴する立場から、冷戦下において東側共産主義)と西側資本主義)が持つイデオロギー性を批判し、1965年から1975年間に行われたベトナム戦争をめぐってリンドン・ジョンソン米大統領と距離を置くとともに、途上国の開発の問題を訴えた[42]


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