国際連合
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国際連盟との間には法的な継続性がないものの、国際司法裁判所や国際労働機関(ILO)等の機関を連盟から引き継いでいる。また、旧連盟本部施設も連盟から移管されていて、部分的には継続した組織といえる。
名称公式ロゴ

英語: the United Nations」(連合国)という言葉が初めて用いられたのは、第二次世界大戦中、日独伊の枢軸国と対戦していた26か国がアメリカ合衆国のワシントンD.C.に集まり、1942年1月1日、枢軸国への対決を明らかにした「連合国共同宣言(ワシントン宣言)」においてである。この名称は、前日の1941年12月31日、ルーズベルト大統領がチャーチル首相に提案して同意を得たとされる[15]。戦後の国際的な平和組織の名称としては、前述の通り1943年8月に作成されたアメリカ国務省の案の中で既に使用されていたが、その後、連合国側の構想の中で使用されるようになった。一方のソ連は「世界連邦(せかいれんぽう)」という名称を提案していた。

国際連合の設立に尽力したルーズベルト大統領は、サンフランシスコ会議開幕直前である1945年4月12日に死去した。会議では、「United Nations」という英語は複数形であり国際機構を意味するものとしては不適当ではないかとの意見もあったが、彼に対する敬意を表してこの名称を採用することが合意された。しばらくは文法上の理由からUnited Nations Organization(UNO)という名称も使われたが、次第に使われなくなった[16]

一方、フランス語では「機構」を示す「Organisation」を付してOrganisation des Nations uniesから、「ONU」との略称を用いている。スペイン語(Organizacion de las Naciones Unidas)、イタリア語 (Organizzazione delle Nazioni Unite) も同様である[16]。ドイツ語でも正式名称はOrganisation der Vereinten Nationenであるが、通常は Vereinte Nationen「連合国」を用いることが多い。略称は「UN」が一般的である。

日本においては、戦争中の国家連合の名称としては「連合国」(れんごうこく)、国際機構に対しては「国際連合」(こくさいれんごう)との訳語が一般に用いられてきた。後者を軍事同盟の連合国と区別するために「国際連合」と意訳したのは外務官僚であるとされる[17]。ただし、連合国側も枢軸国の占領時には連合国について "the Allied Powers" と表記しており、"the United Nations" という用語を軍事的な意味で継続して使用する意思はなかった。1944年(昭和19年)10月にダンバートン・オークス会議で発表された「国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)」を同年12月に外務省が翻訳した際には、既に「国際連合」という訳語が用いられており[18]、その後も国際機構を指す言葉としては戦中[19]から戦後、現在に至るまで使用されている。朝日新聞は、当時条約局事務官で、後に駐英大使を務めた森治樹が名付け親だとする話を報じている[注釈 1]

日本と同様に漢字を使用している中華民国台湾)や中華人民共和国では「聯合國/?合国」が主に用いられている[21]
歴史
設立に至る経緯国際連合の設立に主要な役割を果たした(左から)ウィンストン・チャーチルフランクリン・ルーズベルトヨシフ・スターリンヤルタ会談にて)。

公称では、国連の前身は国際連盟である[22]国際連盟は、1919年、国際協力を促進し、平和安寧を完成することを目的として設立された。しかし、アメリカが参加せず、ソビエト連邦も1934年まで加盟せず、一方、日本、ドイツ、イタリアが脱退するなど、有力国の参加を欠いたこともあって、十分な力を発揮することができず、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった[23]

1941年8月、カナダ東海岸ニューファンドランド島沖のプリンス・オブ・ウェールズの艦上で、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談し、大西洋憲章を提唱した。そこでは、第二次世界大戦後の世界に国際連盟に代わる国際平和機構を創設するとの構想が、抽象的にではあるが既に示されていた[24]。その後、アメリカ国務省の内部で、戦後国際機構の構想が急速に進み、サムナー・ウェルズ国務次官の下に国際機構小委員会が設置され、1942年10月作業を開始して1943年3月には「国際機構憲章草案(英語: Draft Constitution of International Organization)」がほぼ完成していた。コーデル・ハル国務長官がこれを練り直して、同年8月「国際連合憲章(英語: The Charter of the United Nations)草案」を完成させ、ハルは「国連の父」と呼ばれることになる[25][26]

同年7月、イギリスもヨーロッパの安全保障に力点を置いた構想を策定してアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。そして、同年8月にケベックで米英首脳会談が開かれたが、その時点で、米英ソ中の4国が「すべての国の主権平等に基礎を置き、大国小国を問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国際機構」を創設する必要があるとの、後のモスクワ宣言の草案が既に作成されていた[27]

1943年10月にモスクワで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連による外相会議で「一般的安全保障に関する4か国宣言」が出され、ほぼ草案どおりの文言で、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公式に示されることになった[28]。同年のカイロ宣言(米英中)、テヘラン宣言(米英ソ)でも、米英ソ中の4大国が「世界の警察官」(「四人の警察官」と呼ぶ事もある。)としての役割を果たすことが合意された[29]

これを受けて、1944年8月?10月、ワシントンD.C.ジョージタウンにあるダンバートン・オークス・ガーデンにおいて、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の代表が会議を開き、国際連合憲章の原案(「一般的国際機構設立に関する提案」)を作成した(ダンバートン・オークス会議)。ここでは、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された[30]

その後、安保理常任理事国拒否権をどの範囲で認めるかについて、米英とソ連との交渉が続いたが、1945年2月に開催されたヤルタ会談において、大国の拒否権は実質事項のみで、手続事項には適用されないこと、紛争の平和的解決が試みられている間は当事国は表決に加わらないとの妥協が成立した[31]。すなわち、米英ソ中に、イギリスの希望によりフランスを加えた5か国が拒否権を有する安保理常任理事国となるという「5大国一致の原則」が合意された[32]サンフランシスコ会議の模様

1945年4月25日から6月26日にかけて、日本またはドイツ(なお同国は会議中の5月7日に降伏した)に宣戦している連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開いた。ダンバートン・オークス会議で作成された憲章原案に基づき審議が行われ、6月26日、50か国が国際連合憲章に署名して会議は終結した。ポーランドは会議に代表を送っていなかったが、その後国連憲章に署名し、原加盟国51か国の一つとなった。そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国およびその他の署名国の過半数が批准した1945年10月24日に、国際連合が正式に発足した[33]。10月24日は国連デーとして各国で記念されている[34]
設立後と冷戦初代国連事務総長のトリグブ・リー


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