国際連合安全保障理事会における拒否権
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後任のヴャチェスラフ・モロトフも、「ミスター・ベト」(ミスター拒否権)と呼ばれていた[23][24]。モロトフは、アメリカが東ヨーロッパ諸国の国際連合加盟を認めないことに対抗して、新規加盟申請に対して定期的に拒否権を行使していた。1955年12月14日、西欧と東欧の16か国が同時に国連に加盟したことで、この難局はようやく解決した[25]

1950年1月にソ連政府は中華民国が依然として国際連合の中国の議席を保持していることに抗議するために、安全保障理事会の会議を欠席する「空席」政策を採用した[26]。ソ連が安保理に出席しなかったことで、朝鮮戦争における韓国への支援を認めた安保理決議83(1950年6月27日)と安保理決議84(1950年7月7日)に対する拒否権が行使されなかった[27]。ソ連は1950年8月に安全保障理事会に復帰し、拒否権の行使を再開した。

ソ連崩壊後はロシアは拒否権をあまり行使しなかった。しかし、21世紀初頭以降はジョージアシリアウクライナなど、ロシアが軍事的に関与している紛争に関する決議を阻止するために、ロシアは拒否権を頻繁に行使するようになった[28]
アメリカ合衆国「en:United States and the United Nations」も参照

1970年にアメリカはローデシア問題で初めて拒否権を行使し、1972年にはシリアとレバノンに対するイスラエルの戦争を非難する決議案に対して単独で拒否権を行使した。それ以来アメリカは最も頻繁に拒否権を行使しており、そのほとんどはイスラエルを批判・非難する決議に対するものである。2002年以降アメリカはネグロポンテ・ドクトリン(英語版)を適用し、パレスチナ問題に関するほとんどの決議に拒否権を行使している。これは総会と安全保障理事会の間の摩擦の原因となっている。2016年12月23日にオバマ政権はユダヤ人入植地の廃止を求める決議(英語版)に対して、アメリカとしては初めて棄権した[29]。次のトランプ政権は拒否権の行使を再開した[30]
イギリス「en:United Kingdom and the United Nations」も参照

イギリスが拒否権を行使したのは32回である[31]。最初は1956年10月にパレスチナに関するアメリカから安保理議長への書簡に対し、イギリスとフランスが拒否権を行使した時だった。

1956年にフランスとイギリスが軍事的に関与した第二次中東戦争の解決を目的とした決議案に対し、イギリスはフランスと共に拒否権を行使した。アメリカが平和のための結集決議に基づいて緊急特別総会を開催し、総会決議1001が採択されて第一次国際連合緊急軍(UNEF I)が設立されたことで、最終的にイギリスとフランスはエジプトから撤退した[32]。また、イギリスは1963年から1973年にかけてローデシアに関する決議で7回拒否権を行使しており、そのうち5回は単独で行使している。イギリスが単独で拒否権を行使したのはこの時だけである[28]

イギリスが最後に拒否権を行使したのは、1989年12月にアメリカのパナマ侵攻を非難する決議案にイギリス・フランス・アメリカが拒否権を行使したときである[28]
フランス「en:France and the United Nations」も参照

これまでにフランスが拒否権を行使したのはごくわずかである。フランスが最後に単独で拒否権を行使したのは、1976年コモロ諸島の独立問題に関する決議を阻止したときで、これはマヨットをフランスの海外領土として維持するために行われたものだった[33]。また、1956年第二次中東戦争の際、イスラエル軍のエジプトに対する軍事行動の即時停止を求める決議案にもイギリスと共に拒否権を行使した。フランスが最後に拒否権を行使したのは、1989年にアメリカのパナマ侵攻を非難する決議案にアメリカ・イギリスと共に行使したときである[33]。2003年にはイラク侵攻に関する決議に対してフランスが拒否権を行使する恐れがあったため、フランスとアメリカとの間に摩擦が生じた[24]
中華民国・中華人民共和国「中国と国際連合」も参照

1946年から1971年までの間の安全保障理事会での中国の議席は、1949年に国共内戦で敗れて台湾に避難した国民党政府(中華民国)が占めていた。その間中華民国代表が拒否権を行使したのは、1955年モンゴル人民共和国(当時であり、現在はモンゴル国である。)の国際連合加盟申請を阻止した1度だけだった。中華民国はモンゴル全土を自国領土の一部とみなしていたためである。これにより、モンゴルの国連加盟は1961年まで延期された。1961年にソ連が「モンゴルを国際連合に加盟させなければ、今後の他の国に対する新規加盟を阻止する」と宣言した。圧力を受けた中華民国は抗議を受けて譲歩した。

1971年10月25日に中華民国はアルバニア決議によって国際連合から追放され、中国の議席は共産党政府(中華人民共和国)に移された。中華人民共和国は1972年8月25日にバングラデシュの国際連合加盟を阻止するために初めて拒否権を行使した。1971年から2011年まで、中華人民共和国は拒否権をあまり行使せず、中国の利益に直接関係しない決議には拒否権を行使するよりも棄権することを好んでいた[34]。中華人民共和国は、1971年から1976年の間に安保理決議の30パーセントを棄権した[17]:140。ただし、事務総長の選出においては拒否権をたびたび行使しており、特に1981年の選出ではクルト・ヴァルトハイムに対し16回という記録的な回数の拒否権を行使し、ヴァルトハイムの3期目の任期を断念させることとなった[35][36][37][38]。2011年にシリア内戦が勃発して以来中華人民共和国はロシア連邦と共同で拒否権を行使するようになり、新たな対立(新冷戦・米中冷戦)が懸念されるようになった[39]。1999年以降中華人民共和国が単独で拒否権を行使したことは無い。


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