国際連合事務総長の選出
[Wikipedia|▼Menu]
1996年、フランスの国連大使は次期事務総長について、「アフリカ出身の、フランス語を話せる人になってほしい」と述べた[14]。フランスは当初、フランス語を公用語としない国の候補者には全て拒否権を行使していた。しかし最終的には、英語圏のガーナ出身だがフランス語を話すコフィー・アナンの事務総長就任を認めた。

2006年、インドのシャシ・タルールが選挙運動のために北京に赴いた。中国の外相は面会の途中でフランス語に切り替え、タルールの語学力を試した。タルールは、アジアの候補者の中で唯一フランス語を流暢に話せたが、アメリカから拒否権を行使された[16]。最終的に選出された韓国の潘基文は、フランスから拒否権を行使されないために、夜間にフランス語教室に通っていた[22]

過去の選出
事務総長代理

グラッドウィン・ジェブは1945年8月に国連準備委員会事務局長に就任し、1945年10月から1946年2月まで事務総長代理に任命された。国連憲章に基づいて任命されたのは、後任のトリグブ・リーからである。
1946年詳細は「1946年の国際連合事務総長の選出」を参照

当初、事務総長の最有力候補はカナダのレスター・B・ピアソンだった。しかし、国連の常設本部が北米に置かれることが決まっていたため、ソ連は地理的な理由からピアソンの事務総長就任に反対した。そこで常任理事国は、総会議長選挙でベルギーのポール=アンリ・スパークに敗れたノルウェーのトリグブ・リーを指名することで合意した。安保理は、全会一致でトリグブ・リーを初代国連事務総長に選出した。
1950年詳細は「1950年の国際連合事務総長の選出」を参照

国連が朝鮮戦争に関与した後、ソ連はトリグブ・リーの再任に対し拒否権を行使した。アメリカは、総会は安保理の勧告なしにリーの再任ができると主張した。代わりにラテンアメリカ出身の候補者が選出されそうになったとき、アメリカは安保理で初めて拒否権を行使すると脅迫した。他に7票の賛成多数を獲得できる候補者がいなかったため、安保理は総会に勧告を出すことはできないと通告した。総会は46-5-8でリーの任期を3年延長し、1954年2月まで延長することを決定した。
1953年詳細は「1953年の国際連合事務総長の選出」を参照

ソ連は1950年の事務総長選出を国連憲章に違反するものとみなし、リーの就任から5年の任期が満了した1951年の時点で、事務総長の地位は空位になると考えた。それ以来、ソ連はリーを無視し、全ての連絡を事務総長ではなく「事務局」に宛てて出していた。1952年11月、リーは「今こそ国連に損害を与えずに去る時だと確信している」と辞任の意向を表明した。朝鮮休戦協定の交渉が進む中、リーは新しい事務総長がソ連との協力関係を回復できると考えていた[23]。1953年1月にドワイト・D・アイゼンハワーがアメリカ大統領に就任し、1953年3月にヨシフ・スターリンが死去した。

イギリスはカナダのレスター・B・ピアソンを精力的に推したが、再びソ連によって拒否権を行使された。アメリカはフィリピンのカルロス・P・ロムロを推したが、過半数の7票を得られなかった。ソ連が推した候補者は大量の棄権を受けた。3週間の交渉の後、フランスがスウェーデンのダグ・ハマーショルドを提案した。ハマーショルドのことはほとんど知られておらず、アメリカ国務省は当初、これが誰なのか分からなかった。しかし、ハマーショルドは米ソに受け入れられ、安保理はハマーショルドをリーの後継者に選んだ[24]
1957年詳細は「1957年の国際連合事務総長の選出」を参照

1957年、ハマーショルドは全会一致で2期目の再選を果たした。

1960年に勃発したコンゴ動乱に対するハマーショルドの対応にソ連は不満を抱いていた。ソ連はハマーショルドを辞任に追い込み、事務総長をトロイカ体制、つまり3人の執行部に置き換えることを提案した[25]。西側諸国はこの動きに反対し、ソ連はこの案を取り下げた。
1961年詳細は「1961年の国際連合事務総長の選出」を参照

1961年、ハマーショルドが北ローデシア(現ザンビア)での飛行機事故で死亡した(1961年国連チャーター機墜落事故)[26][27]。国連憲章には事務総長の代理者に関する規定がなかった。ソ連はトロイカ体制の導入を再び提案し[28]、アメリカとイギリスは総会議長が事務総長の職務を遂行することで安保理を迂回させる案を打ち出した[29]。1週間の交渉の後、ソ連とアメリカは、ビルマのウ・タントがハマーショルドの役割を引き継ぐことで合意した。しかし、2つの超大国は事務次長補の数をめぐり、アメリカは5人[30]、ソ連は3人、4人、6人、7人のいずれか[31][32]を提案し、4週間にわたって交渉が行き詰まった。最終的に両国は、この件をウ・タントに一任することで合意した[33]。ウ・タントは全会一致で、1963年4月10日に終了するハマーショルドの残任期間の事務総長代行に選ばれた[34]
1962年詳細は「1962年の国際連合事務総長の選出」を参照

就任から1年も経たないうちに、ウ・タントはキューバ危機の解決に重要な役割を果たした。ソ連のニキータ・フルシチョフ首相がアメリカのジョン・F・ケネディ大統領に宛てた書簡の中でウ・タントに好意的な言及を何度かしており、ウ・タントの再選は確実となった[35]。1962年11月、国連総会は満場一致で、1966年11月3日までの任期でタントを事務総長代理から事務総長に昇格させることを決議した[36]。個人的な理由から、タントは最初の就任から5年で任期を終えることを望んでおり[35]、就任から最初の5年間を1期とみなすことになった[37]
1966年詳細は「1966年の国際連合事務総長の選出」を参照

1966年、ウ・タントは再選に立候補しないと宣言した[37]。しかし、後任に指名された候補者はおらず、ウ・タントは3期目の任命を受けた[38]。ウ・タントの3期目の任期は1971年12月31日までとされ[39]、それ以降、事務総長の任期は暦年に合わせて調整されることとなった。
1971年詳細は「1971年の国際連合事務総長の選出」を参照

ウ・タントは、2期に相当する任期を務めた後の1971年末に事務総長を退任する意向を表明した。ソ連はウ・タントを続投させようとしたが[40]、アメリカはウ・タントが引退できるように拒否権を行使することを表明した[41]

フィンランドのマックス・ヤコブソン(英語版)が最有力候補だった[42]が、第1次選考で最多得票を獲得したのはオーストリアのクルト・ヴァルトハイムだった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef