国際通貨基金
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この体制の根幹はアメリカが「金1オンスを35USドル」と定め、そのドルに各国がペッグして固定相場制を取るという変則的な金本位制によって成り立っていた[4]金本位制を取るアメリカ・ドルに各国通貨がペッグしていることから、この時期の通貨体制を「金・ドル本位制」とも呼ぶ。この時期のIMFは参加各国の為替自由化を主要な目標とし、国際収支の赤字を理由に為替制限ができるIMF14条国から、それができないIMF8条国への参加各国の移行を目指していた。この目標は西ヨーロッパ諸国においては1961年に、日本においては1964年に達成された。

しかしこの頃から、西ヨーロッパ諸国や日本は急速に経済発展し、一方のアメリカは経済的に低迷するようになった。このアメリカの相対的な経済優位の喪失は、市場からマイナスの評価を下され、アメリカから大量の金が流出するようになった。また、アメリカによるベトナム戦争の軍事介入は、アメリカの戦費を増大させ、アメリカの財政赤字をますます悪化させた。そして、世界において、アメリカ・ドルへの信頼がさらに低下していった。IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が揺らぎ始めたのである。

こうした状況を改善するため、IMFは1969年の第一次協定改正によって、金やドル等の既存の準備資産を補完するための公的準備資産である「特別引出権(SDR)」を創設した。これにより、加盟国はそれまでのIMFに対する直接借入れに加え、他の加盟国からIMFが定める「自由利用可能通貨」(2018年現在はドル・ポンド・ユーロ・円・人民元)という通貨バスケットにある通貨を融通してもらうことが可能になったが、それでも、アメリカの貿易赤字と信認の低下は依然と続いた。アメリカからの金の流出も続いた。

そして、ついに、1971年8月15日、アメリカのリチャード・ニクソン大統領は、アメリカ・ドルと金との兌換停止を電撃的に発表した。これにより、「金・ドル本位制」は崩壊した(詳細は「ニクソン・ショック」を参照)。これは同時にブレトン・ウッズ体制の崩壊をも意味していた。

このアメリカの発表を受けて、世界各国は新たな国際通貨体制を模索し、1971年12月18日、とりあえず、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とする「スミソニアン協定」を締結し、固定相場制の存続を図ろうとしたが、ドルの暴落は依然として止まらず、固定相場制は存続不可能となった。そして、世界各国は相次いで変動相場制を採用し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊することになった。この状況に対し、IMFは1976年に変動相場制の承認や金の公定価格の廃止を含んだ「キングストン合意」[5]を採択し、1978年には発効した[6]。世界経済は、変動相場制を基礎とする「キングストン体制」が新たに始まったのである。
ブレトン・ウッズ体制崩壊後

1970年代中盤以降になると、発展途上国の経済・債務問題への対処がIMFの大きな目的の一つとなった[7]。先進国への融資は1978年を最後としてほぼなくなり[8]、発展途上国への融資がIMFの主要な目的の一つとなった。これは、戦後の復興が一段落つき、開発資金援助へと特化していた国際復興開発銀行および世界銀行グループと業務の重複を生むこととなった。

折から、第二次石油ショック後の資源価格の下落や1970年代の無理な産業開発戦略の影響で、1980年代に入ると中南米諸国やアフリカ諸国において債務危機が多発するようになった。

これを受け、IMFは発展途上国に救済融資を行った。それまでのIMFの融資条件はさして厳しいものではなかった[9]が、この融資を行うに当たり、IMFは問題の根源は支払い能力ではなく資金の流動性にある、すなわち債務支払い能力がないわけではなく、一時的に資金繰りがショートしているだけであると考え、IMFは当該国の政府に緊縮財政政策を取らせて経常収支を改善するよう付帯条件をつけた。

発展途上国はIMFの勧告に従い、増税や政府支出削減、民営化、経済自由化、通貨切り下げなどを行った[10]。こうした政策を総称して、「IMFの構造調整」と呼ぶ。このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた[11]。またこのプログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、雇用や教育、医療などにおいて後退や停滞が発生し、1987年には国際連合児童基金(UNICEF)は、このIMFの構造調整を厳しく批判している[12]。同時期、ラテンアメリカにおいても債務危機が発生し、IMFによる構造調整が行われたが、これも経済成長をもたらすことなく失敗し、経済状況はさらに悪化した[13]

アフリカにおける構造調整策は、ただ単純に成功しなかったというだけではなく、政府開発援助を行う先進諸国が被援助国に構造調整政策の実施を前提条件として求めた[14]ことから、IMFと世界銀行の介入が非常に大きな意味を持つようになってしまい、内政不干渉の原則にはずれるとの批判の声も上がった[15]

一方、こうした構造調整に伴う痛みの大きさやそれに見合わない成果、既得権益との兼ね合い、そして当該国の行政能力そのものの低さなどから構造調整が遅々として進まない、あるいは政府ができる限り形式的な改革で済ませようとする事例も、特に1980年代には頻発した[16]。しかしこうした抵抗に対し、1991年ケニアのように、IMFは構造調整の遅れた国に新規融資を差し止めるなどの措置を行い、構造調整の実施を強制した[17]

1980年代後半に入るとソビエト連邦の衰退が明らかになり、ペレストロイカの流れの中でIMFと東側諸国との関係は改善に向かった。そして1989年東欧革命が勃発し社会主義体制が崩壊すると、これら諸国の市場主義経済化を支援し、経済的に立ち直らせることもIMFの重要な職務の一つとなった。1990年以降はソビエト連邦からの支援要請も相次ぐようになり、1991年末にソビエト連邦の崩壊が起きると、ロシア連邦をはじめとする独立国家共同体(CIS)諸国への支援がこれに加わった。IMFはこうした旧ソ連・東欧諸国に対し急進的な市場経済化、いわゆるショック療法を提案したが、インフレと緊縮財政によって国民生活は大きな打撃を受けた[18][19]。この政策は全体的に成功したとは言えず、とくにロシアにおいては1998年ロシア財政危機を起こす原因の一つとなった。

1994年12月にはメキシコで資本収支危機が発生したものの、このときはIMFから180億ドルの融資が行われる[20]など各国が大規模支援を行ったため、速やかに経済は回復した[21]

1997年7月にタイでの通貨危機を皮切りに発生したアジア通貨危機において、IMFはタイ・インドネシア韓国の3か国に対して支援を実施した。しかしこれらの諸国の経済の基礎的条件はそれほど悪いものではなく、急速な資本流出こそが問題であったのにそれと関係のない緊縮財政や構造改革などの政策を取ってしまったため信用収縮はさらに拡大し、この3か国は深刻な不況に見舞われた[22][23]。これらの国々に対する厳しい貸し出し条件(コンディショナリティ)は、画一的な財政緊縮策や、対外収支の改善に直接関係しないガバナンス改革等が多く含まれていたこともあって後に多くの批判を招くこととなり、後のコンディショナリティ見直しへとつながることとなった。
金融危機後の資金基盤強化

2008年には、前年のアメリカのサブプライム住宅ローン危機に端を発し、9月のリーマン・ブラザーズの倒産(リーマン・ショック)に代表される世界金融危機が勃発し、IMFは金融危機に瀕した加盟国の支援を行った。こうした中で支援の原資となるIMFの資金基盤強化が急務となった。IMFの融資財源は原則的に加盟国が出資するクォータから賄うこととされているが、IMFの議決権はクォータ比例であるために増資交渉には時間がかかる。そのため、当面は加盟国からの借り入れによって資金基盤を拡大しつつ、同時並行で大規模な増資交渉が行われることとなった。2008年11月に開催された第1回G20サミットでは日本がIMFに対する1000億ドルの貸付を表明[24](2009年2月締結)[25]。その後加盟国からIMFへの貸付による資金基盤拡大が国際的な議論の流れとなり、2009年9月の第3回G20サミットではIMFの資金基盤が最大7500億ドルまで拡大されたことが確認された。[26]

2010年12月15日には、IMFのクォータ(出資額)総額を倍増する第14次クォータ一般見直し、及び全理事選任制への移行などのガバナンス改革のための第七次協定改正が総務会にて決議された(IMF2010年改革)。[27] しかし、2010年改革は、その発効のために投票権シェア85%以上を持つ113ヶ国以上の受諾が必要とされていたが、投票権シェア15%以上で実質的に拒否権を有する米国での国内承認の遅れから発効が大幅に遅れ、2016年1月26日にようやく発効した。


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