国際通貨基金
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このIMFの構造調整政策はラテンアメリカやアジア・アフリカの発展途上国を対象として広く行われたが、特にアフリカにおいては経済成長をもたらすことはなく、逆に経済の停滞、悪化を招いた[11]。またこのプログラムにより、アフリカや南米、アジアなどの発展途上国では、雇用や教育、医療などにおいて後退や停滞が発生し、1987年には国際連合児童基金(UNICEF)は、このIMFの構造調整を厳しく批判している[12]。同時期、ラテンアメリカにおいても債務危機が発生し、IMFによる構造調整が行われたが、これも経済成長をもたらすことなく失敗し、経済状況はさらに悪化した[13]

アフリカにおける構造調整策は、ただ単純に成功しなかったというだけではなく、政府開発援助を行う先進諸国が被援助国に構造調整政策の実施を前提条件として求めた[14]ことから、IMFと世界銀行の介入が非常に大きな意味を持つようになってしまい、内政不干渉の原則にはずれるとの批判の声も上がった[15]

一方、こうした構造調整に伴う痛みの大きさやそれに見合わない成果、既得権益との兼ね合い、そして当該国の行政能力そのものの低さなどから構造調整が遅々として進まない、あるいは政府ができる限り形式的な改革で済ませようとする事例も、特に1980年代には頻発した[16]。しかしこうした抵抗に対し、1991年ケニアのように、IMFは構造調整の遅れた国に新規融資を差し止めるなどの措置を行い、構造調整の実施を強制した[17]

1980年代後半に入るとソビエト連邦の衰退が明らかになり、ペレストロイカの流れの中でIMFと東側諸国との関係は改善に向かった。そして1989年東欧革命が勃発し社会主義体制が崩壊すると、これら諸国の市場主義経済化を支援し、経済的に立ち直らせることもIMFの重要な職務の一つとなった。1990年以降はソビエト連邦からの支援要請も相次ぐようになり、1991年末にソビエト連邦の崩壊が起きると、ロシア連邦をはじめとする独立国家共同体(CIS)諸国への支援がこれに加わった。IMFはこうした旧ソ連・東欧諸国に対し急進的な市場経済化、いわゆるショック療法を提案したが、インフレと緊縮財政によって国民生活は大きな打撃を受けた[18][19]。この政策は全体的に成功したとは言えず、とくにロシアにおいては1998年ロシア財政危機を起こす原因の一つとなった。

1994年12月にはメキシコで資本収支危機が発生したものの、このときはIMFから180億ドルの融資が行われる[20]など各国が大規模支援を行ったため、速やかに経済は回復した[21]

1997年7月にタイでの通貨危機を皮切りに発生したアジア通貨危機において、IMFはタイ・インドネシア韓国の3か国に対して支援を実施した。しかしこれらの諸国の経済の基礎的条件はそれほど悪いものではなく、急速な資本流出こそが問題であったのにそれと関係のない緊縮財政や構造改革などの政策を取ってしまったため信用収縮はさらに拡大し、この3か国は深刻な不況に見舞われた[22][23]。これらの国々に対する厳しい貸し出し条件(コンディショナリティ)は、画一的な財政緊縮策や、対外収支の改善に直接関係しないガバナンス改革等が多く含まれていたこともあって後に多くの批判を招くこととなり、後のコンディショナリティ見直しへとつながることとなった。
金融危機後の資金基盤強化

2008年には、前年のアメリカのサブプライム住宅ローン危機に端を発し、9月のリーマン・ブラザーズの倒産(リーマン・ショック)に代表される世界金融危機が勃発し、IMFは金融危機に瀕した加盟国の支援を行った。こうした中で支援の原資となるIMFの資金基盤強化が急務となった。IMFの融資財源は原則的に加盟国が出資するクォータから賄うこととされているが、IMFの議決権はクォータ比例であるために増資交渉には時間がかかる。そのため、当面は加盟国からの借り入れによって資金基盤を拡大しつつ、同時並行で大規模な増資交渉が行われることとなった。2008年11月に開催された第1回G20サミットでは日本がIMFに対する1000億ドルの貸付を表明[24](2009年2月締結)[25]。その後加盟国からIMFへの貸付による資金基盤拡大が国際的な議論の流れとなり、2009年9月の第3回G20サミットではIMFの資金基盤が最大7500億ドルまで拡大されたことが確認された。[26]

2010年12月15日には、IMFのクォータ(出資額)総額を倍増する第14次クォータ一般見直し、及び全理事選任制への移行などのガバナンス改革のための第七次協定改正が総務会にて決議された(IMF2010年改革)。[27] しかし、2010年改革は、その発効のために投票権シェア85%以上を持つ113ヶ国以上の受諾が必要とされていたが、投票権シェア15%以上で実質的に拒否権を有する米国での国内承認の遅れから発効が大幅に遅れ、2016年1月26日にようやく発効した。[28]
主要会議

毎年秋に年次総会と呼ばれる世界銀行と合同の総務会を開催。また年2度の国際通貨金融委員会の開催も行っている。

総会(英語: World Bank IMF General Assembly)は、毎年秋に1回、世界銀行と合同で開催される。

国際通貨金融委員会(英語: International Monetary and Financial Committee、IMFC)は、年に2回開催される。
構成

意思決定機関として総務会と理事会がある。

英語: Board of governors(一般的に総務会と訳される)」は、各国につき1人の総務(財務大臣中央銀行総裁など)と1人の総務代理で構成される最高意思決定機関で、年1回開催される[1]。投票権は出資金の支払い比率に応じて与えられる。この出資金がIMFの財源であり、経済規模に応じて定められている。

英語: Executive board(一般的に理事会と訳される)」は、24名の理事によるIMFの通常業務に関する執行機関。投票権の少ない国は複数国で一つの理事室を形成している。[29]
幹部

理事は2016年現在24名で構成されている[30]。理事はすべて加盟国によって選出される。

かつてはIMFの上位出資国五か国(アメリカ合衆国イギリスフランスドイツ日本)が任命理事を各国一人ずつ選任し、残りの加盟国が選出理事を投票で19名選出していたが、IMFの機構改革の一環として任命理事を廃止し、24名すべての理事を加盟国によって選出することとする第七次協定改正が行われた(2010年12月総務会決議[31]、2016年1月26日発効[27])。

英語: managing director(一般に専務理事と訳される)」は、理事会の議長と国際通貨基金の代表を務める。専務理事は理事会によって選出されることとなっている。[32]世界銀行の総裁に米国出身者が選出されているのと同様、国際通貨基金の専務理事には欧州出身者の就任が慣例となっている。(また、理事が任命する副専務理事のうち、筆頭副専務理事はこれまで常に米国出身者が務めている。)なお、過去の選出過程では、カムドシュの後任として日本の榊原英資元財務官が、またストロスカーンの後任にメキシコ中央銀行のカルステンス総裁の起用が検討されたこともある。

代専務理事国就任退任
1カミーユ・ガット(英語版) ベルギー1946年5月6日1951年5月5日
2イヴァル・ルース(英語版) スウェーデン1951年8月3日1956年10月3日
3ペール・ヤコブソン1956年11月21日1963年5月5日
4ピエール=ポール・シュバイツァー(英語版) フランス1963年9月1日1973年8月31日
5ヨハネス・ヴィトフェーン(英語版) オランダ1973年9月1日1978年6月16日
6ジャック・ド・ラロジエール(英語版) フランス1978年6月17日1987年1月15日
7ミシェル・カムドシュ(英語版)1987年1月16日2000年2月14日
8ホルスト・ケーラー ドイツ2000年5月1日2004年3月4日


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