国鉄D51形蒸気機関車
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そのためD51形では前部デッキと先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面先台車周辺の保守が難しくなり、検修陣にはD50形と比してD51形を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17 mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19 mを、それぞれ超過するD50形は60フィート (18.3 m) 転車台での転向が難しく、通常は20 m転車台での転向を必要としていた。この短縮により亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、D51形の運用範囲拡大に大きく貢献している。

動輪はそれまでのスポーク輪芯から、中空構造の箱形(ボックス)輪芯に変更している。これはアメリカで開発され、D51形の設計が始まる前年の1934年(昭和9年)に製品が発表されたものをいち早く採用した形である。その構造・形状から太鼓焼き蓮根といった異名で呼ばれることもあったが、円盤に近い形状であるため円周の各部に均等に力がかかり、また比較的軽量であると言う利点から以後ほぼ全ての[注 3]省形蒸気機関車に採用されている[11]

戦時形ではボイラー使用圧力が15 kg/cm2へ引き上げられ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した[12]。初期形、標準形についても戦後に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。登場時は燃焼室を装備していないため、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えなかったが、戦後に重油併燃装置が追加され三分の一以上も石炭が節約できるようになった他、引張定数または速度を10パーセント向上させている[13]

電気溶接の全面的な採用と箱形化された動輪輪芯など、形態的には同時期に設計されたC57形との共通点が多い。
製造時期による区分

本形式は製造時期と形態から三種に大分される。以下にその特徴を記す。
初期形.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}D51 1(ナメクジ型)D51 51(ナメクジ型)D51 23(おおナメクジ型)

D51 1 - 85・91 - 100

先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20・8-20A(8-20AはD51 91 - 96のみ)、動力逆転機搭載

初期に製造された95両は、ボイラー上の砂箱と煙突の間に給水加熱器をレール方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半流線形形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「ナメクジ」の通称もある。また、汽車製造会社製のD51 22・23はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、あるいは「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれている。なお、D51 23はキャブ側面にタブレットキャッチャーを、ランボード上にナンバープレートを装着していた。この両機は後に保守上の都合等から通常の「ナメクジ」型に改装されている。

また、このグループは運転台の奥行きが標準形に比して短い。文献によっては、設計主任の島秀雄の配慮により機関車を大きく見せるために通常よりも小さく作ったものであると記述されたものがあるが、D50形よりも前頭部を短くしたために後部が重くなってしまい、そのバランスをとるために小型化したものである[14][要ページ番号]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ゆったりした運転台を持つD50形に比べ乗務員の労働環境として劣悪だったともされる[要出典]一方で、D50形の運転室はボイラーとの重なりが多いため火室が大きく張り出しており実際に作業できる面積は見かけほど差がなく[15]、本機ではボイラーの熱を避けるため必要最低限の広さとしていた[16]。D51形やD52形の乗務に慣れると、D50形は機器や配管の位置が極めて乱雑な上に運転台が広いため操作に手惑い落ち着かないとの回想もあった[17]。また乗務員用ツールボックスはD50形・D51形共に座席下にあり、ここに置いた弁当はすぐに腐ってしまったという[18]

第1動輪の軸重を重く、第4動輪の軸重を軽く配分していたD50形[注 4]に対し、第1動輪の軸重がそれ以外よりも軽かったD51形[注 5]は列車牽き出し時などの過荷重状態に第1動輪の軸重がさらに低下して空転する傾向が強かったため、額面上の性能向上にもかかわらず乗務員の評価は良くなかったとされる。全長短縮により部品が後方に設置されたことに加え、ボイラが計画重量よりも軽く仕上がったことが原因であった[19]。なお空転の原因は、元乗務員の座談会では自動リバー(動力逆転機)が空気作動のため少し動かしたつもりが大きく変わってしまうこととされ[20]、国鉄の鉄道技術発達史にはシリンダけん引力 (Cylinder power) に対する粘着力 (Adhesion) の割合が、D50形より小さいため操縦に慣れるまで好まれなかった[21]と書かれており動軸重の配分については触れられていない。

様々な機関車に乗務した古参機関士からは9600形やD50形よりも良いと評価されたが足(軸重)の軽さが難点とされた[22]。また、8620形や9600形が空転しにくいが勾配で自然停車する事態を受け、D51形の世代は砂撒きで補える空転を容認して勾配で止まらない設計になり[23]、従来機との勝手の違いに戸惑う声が多かった[24]

初期形は、構造上汎用形の集煙装置が取り付けられないために配置が区別されており、標準形と同仕様へ改造された例も見られる。なお、ナメクジという呼び名は当初は鉄道ファンの間での通称だったが、後には初期形D51形を区別する呼称として国鉄内部でも用いられた。その後、山口線で蒸気機関車運転の復活が決定された際、D51 1が復活予定候補に挙がったが、集煙装置が取付不可だったために予定機から外された経緯がある。結局、C57 1とC58 1が運用されたが、同形式の集煙装置の図面がなかったことから、標準形D51形用の長野工場(現・長野総合車両センター)式集煙装置が搭載された。
標準形D51 720(標準型)標準型D51の運転席

D51 86 - 90・101 - 954

先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20A・B、動力または手動(ねじ式)逆転機搭載

8-20AはD51 86 - 90・101 - 106・199 - 211に連結。AとBの相違点は炭水車の台車で、Aは軸ばねにコイルばねを用い、側枠を一体鋳鋼製としたTR24形類似のもの、Bは軸ばねに重ね板ばねを用い、側枠を接板台枠構造としたものである。

逆転機はD51 134以降、微妙な操作が行いにくい動力式から手動式に戻された。

初期形の重量配分を改善するために19371938年(昭和12・13年)に浜松工場で製造されたD51 86 - 90において改良試作が行われ、給水暖め器を煙突前に枕木方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更するなどの設計変更が行われた。これにより初期形で問題とされた点は概ね改善され、1938年6月竣工のD51 101以降はこの仕様で新製、この姿が広くD51形のイメージとして流布することとなった。

ただし、初期形と比較すれば改善されてはいたものの第1動輪の軸重がそれ以降の動輪軸重より軽いという傾向に変わりはなく[注 6]、ボイラー圧力の引き上げなどによりシリンダー出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていた。そのため、粘着性能の良否が直接列車の定時運行に影響する北陸本線信越線などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する機関区が少なからず存在した。こうした否定的な状態が発生した理由は、D50形においても勾配で立ち往生や逆行を頻発させていたためで[25]、1928年(昭和3年)には2両のD50形が牽引する貨物列車がトンネルで空転を起こし、救援に向かった列車も立ち往生してしまい全員が窒息による危篤状態に陥り、3名(5名説もあり)が死亡、12名が昏倒する悲惨な事故を起こしていた[26]

これらの機関区にD51形が配置されるようになるのは、操縦に馴れるにつれD50形よりもむしろ優秀であることがわかり、D51形の配置を希望するようになってからであった[27]。根室本線旧線のように25パーミルの勾配と漏水するトンネル、カーブが全体の71.7パーセントに達し(半径225.31 m、181.05 m、181.05 m、最小179.04 mが連続する)、国内の鉄道路線の中でも自然条件と運転の条件が厳しい過酷な状況でも実用に耐え[28][29]1966年(昭和41年)に新線に切り替わるまで使われた。


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