国鉄103系電車
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初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかのチェックを見落としていた[9]。既に1957年(昭和32年)度にモハ90形が150両分予算計上されており、1958年(昭和33年)春から夏にかけて落成したが、量産車も本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる[10]。モーター数を減らした編成で運転した方が車両新製費用が安いことから、1958年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。
101系電車の使用方法の検討

第2次5ヵ年計画での昭和40年度編成両数想定[11]混雑時閑散時備考
編成時隔編成時隔
京浜東北82'00"85'00"-
山手82'00"84'00"-
赤羽85'30"45'30"-
中央急行102'00"85'00"-
中央緩行82'30"85'00"-
南武63'00"46'00"-
横浜810'00"2 - 415'00"-
常磐93'00"66'00"混雑時の時隔は中距離電車等との平均

1959年(昭和34年)に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成の8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6 %以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法にも、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が可能かどうかの検討が始められる。

これらの観点から、1959年(昭和34年)11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T + 付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた[12]。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年(昭和34年)秋頃から実用化[13]され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、モーターを冷やす時間が少ないことから、101系は不利になった。
新形通勤電車の構想

101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年(昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた[14]。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用抑速ブレーキとして国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電気鉄道が1959年(昭和34年)2月以降1650型の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており[15]、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000型の営業運転を開始した[16]。また、小田急電鉄では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)度中に落成している。
架線温度上昇問題

中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84 %に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上した[17][18]。この問題は、架線を平行に並べるツインシンプルカテナリー方式を用いることで改善できることもあり、中央線と中央・総武緩行線の工事を行った。
101系のパワーアップを検討

101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年(昭和35年)3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、初期費用が高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120 kWのMB3039A形[19]電動機を101系2両に搭載し、1961年(昭和36年)1月に中央線や山手線で試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、編成単位での長期試験を行うことも検討された[20]
限界性能の6M4T化

1960年(昭和35年)初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足[21]にあったことから、101系を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入した[22]。これを実現させるには編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた[23]
標準形通勤電車の設計へ

新形通勤電車の投入候補線区[9]候補線区検討
対象平均駅間
距離 (km)平均速度
(km/h)
中央緩行○1.2739.6
総武○1.7446.0
京浜東北○1.4544.4
阪和○1.2638.6
常磐-2.6452.8
京阪神緩行-3.2956.7

一方、首都圏の通勤事情は悪化し、1961年(昭和36年)1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる[24][25]。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始した。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された[26]101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備されたのはラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低費用で大量量産する新形通勤電車が必要となった(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。

101系では当初全M車編成で3.2 km/h/sという加速度が目標[27]とされたが、6M4T化により2.0 km/h/sの加速度と3.0 km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0 km/h/sの加速度に留め、3.5 km/h/sという減速度を目指すことになった[28]
運転時隔と車両性能の検討

場内信号機建植に特例がある区間(昭和40年)[29]線名区間
東北本線東京 - 大宮間(電車線)
東海道本線東京 - 横浜間(電車線)
根岸線横浜 - 磯子間[注 1]
山手線電車線
中央本線東京 - 高尾間
総武本線御茶ノ水 - 千葉間
常磐線日暮里 - 松戸間
大阪環状線全線

国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を閉塞という区画で区切り信号機により追突を防止する信号保安というシステムを用いた。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が進行信号で走行する必要があるが、ラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。京浜東北線と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した[30]。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔を縮めようとしたが、電力設備が追いつかず、旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なことから、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25 km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄 + 黄)や65 km/h以下で進む減速信号(黄 + 緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた[31]


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