国道246号
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現道 : 123.5 km(東京都 16.3 km、神奈川県 52.8 km、横浜市 11.6 km、川崎市 7.2 km、静岡県 35.7 km)[3][注釈 2]

旧道 : 0.8 km(東京都 - km、神奈川県 - km、横浜市 - km、川崎市 0.8 km、静岡県 - km)[3][注釈 2]

新道 : 1.1 km(東京都 1.1 km、神奈川県 - km、横浜市 - km、川崎市 - km、静岡県 - km)[3][注釈 2]


指定区間:東京都千代田区永田町一丁目1番5 - 沼津市大岡字下耕地2768番の3[4]

※東京都世田谷区玉川二丁目1507番3 - 川崎市高津区二子一丁目2411番1 - 同区二子一丁目1番3(二子橋経由の経路)を除く。


歴史
律令時代から戦国時代

律令時代の頃、畿内から東国を結ぶ東海道の道筋は足柄峠を越える「足柄道」があり、この道が現在の国道246号に近いところに沿って通っていた[5]。なお、都筑郡郡衙は国道246号至近にある。ただし、必ずしも重複していたわけではなく、国道246号の直接の祖が現れるのは江戸時代の頃となる。延暦19年(800年)から始まった富士山噴火による火山灰の堆積によって足柄道が使用できなくなり、代わりに箱根峠越えの東海道が切り拓かれた[5]。やがて、足柄道の復旧が行われたが、往時の勢いを取り戻すまでには至らなかった[5]
江戸時代

江戸時代に五街道の一つである東海道が徳川初代将軍家康によって整備されると、ほぼ足柄道に沿うかたちで新たに矢倉沢往還が整備され、東海道の脇往還として利用されるようになる。東海道同様、江戸と東海道沿道各地を結び、人や物資が往来し発展した。この矢倉沢往還は、現在の国道246号の原形となる経路をたどっている[6]

享保年間になると大山が盛んになり、江戸から山岳信仰のある大山に詣でるための街道としても賑わった。丹沢山地南端に位置する大山阿夫利神社への参詣のため、多くの庶民から人気を集め利用されるようになり、この頃より大山道(大山街道)とも呼ばれるようになる[6]。その名は、現在も神奈川県内の通称名や同県内および、東京都内の旧道などに残っている。
近現代

大山街道は明治大正の道路施策のなかでは一地方道の扱いとなったが、1952年昭和27年)の一級国道の路線指定に際しても、都県道に留め置かれた[6]。まだこの頃の大山街道は田畑を縫う細い砂利道であったといい、東京 - 横浜 - 沼津間には東海道を継承する一級国道1号や15号があったため、翌1953年(昭和28年)の二級国道の路線指定の対象からも漏れている[6]。国道として初めて指定されたのは、1956年(昭和31年)の二級国道の第二期路線指定で「二級国道246号東京沼津線」となったときである[7][注釈 3]。この頃までの神奈川県川崎市・横浜市の沿線は、交通の便が良くなかったことから農業主体の集落が多く、牧歌的な雰囲気を残していた。ちょうどこの頃から、並行するように東名高速道路の建設が始められ、東急グループによる田園都市線を中心とした開発が進められるようになる[8]。沿道の東京都の駒沢には、1964年東京オリンピックのスタジアム(駒沢オリンピック公園)も設置された[8]

1965年(昭和40年)の一般国道の路線を指定する政令で、一級・二級の国道区分が廃止されて一般国道に統合されたことに伴い、「二級国道246号東京沼津線」から「一般国道246号」となる[9]直轄国道となったこの頃より道路改良する土地に裕度があった国道246号は、輻輳が激しく改修の余地の小さい国道1号バイパス路線として注目され、重点的に道路改良整備が一気に進められた[8]多摩田園都市の開発とともに、沿線は急速に宅地化され交通量が増大したため、1974年(昭和49年)以降に東京・横浜バイパスが建設されている。この東京・横浜バイパスとして整備された区間の旧道は、のちに移管されて国道指定解除を受けている。
年表
国道指定以前

1920年大正9年)4月1日 - 『道路法』(当時)に基づく、「東京府告示第百六十二號」、「神奈川縣告示第百二十二號」および「静岡縣告示第百十九號」により、東京府道第1號東京厚木線、神奈川縣道厚木東京線・厚木御殿場線、静岡縣道小山厚木線・御殿場小山線・沼津御殿場線が指定される。

1925年(大正14年)7月 - 二子橋竣工。

1927年昭和2年) - 玉川電車溝口線開通。二子橋上に軌道が敷設され、併用軌道となる。

1936年(昭和11年)9月25日 - 「内務省告示第五百十六號」(指定府縣道竝指定地方費道)により、東京府道4號東京秦野線、神奈川縣道1號秦野東京線・縣道2號秦野御殿場線、静岡縣道6號御殿場秦野線が指定される。

1945年(昭和20年) - 二子橋上の線路が軌道から鉄道へ変更。二子橋が鉄道・道路併用橋(狭義)となる。

1952年(昭和27年)6月10日 - 新道路法が施行される。

1954年(昭和29年)1月20日 - 「建設省告示第十六号」(主要な都道府県道及び市道)で、主要地方道東京沼津線(東京都千代田区 - 静岡県沼津市)として認定。

1955年(昭和30年)

3月4日 - 「神奈川県告示第百三十六号」により、神奈川県主要地方道東京沼津線[10]として指定される。

12月15日 - 「東京都告示第千五十八号」により、東京都主要地方道東京沼津線[11]として指定される。


国道指定以後

1956年(昭和31年)7月10日 - 二級国道246号東京沼津線(東京都千代田区 - 沼津市)として指定施行[12]

1959年(昭和34年) - 沿線で多摩田園都市の開発が始まる。

1965年(昭和40年)4月1日 - 道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道246号として指定施行[2]

1966年(昭和41年)4月1日 - 東急田園都市線開通。二子橋上の線路が専用橋に移転。

1966年(昭和41年)度 - 裾野バイパスの事業化・着工。

1969年(昭和44年) - 東急玉川線廃止。併用軌道解消。

1970年(昭和45年)3月 - 渋谷 - 三軒茶屋間にバスレーンが東京都で初めて設置される(他に目黒通り、玉川通り)。同年11月に瀬田交差点まで延長[13]

1971年(昭和46年) - 渋谷 - 用賀の国道上空に首都高速3号渋谷線開通。

1974年(昭和49年)度 - 神奈川県内の国道246号のうち静岡県境側の14.4 km区間が神奈川県から建設省へ移管(一部区間は昭和53年度に移管)。

1974年(昭和49年)

3月 - 新二子橋竣工(供用開始は1978年6月)。


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