国語辞典
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注釈^ 例えば和歌などの創作に際して古典的な表記を用いる場合、は「かわ」なのか「かは」なのかを知りたい時など[11]
^ a b 集文館『新選国語辞典』など。
^ a b 岩波書店『広辞苑』など。
^ 巻第29(天武天皇11年3月13日条)に「三月の(略)丙午に、境部連石積等に命じて、更に肇(はじ)めて新字一部四十四巻を造らしむ」とある[14]
^ 12世紀、鎌倉初期に増補して十巻本としたのは『伊呂波字類抄』と呼ばれる[20]
^ これらは「三大辞書」といわれる[23][24][25][26]
^ ただし『俚言集覧』が一般に広まるのは、明治になって、1899年に『増補俚言集覧』として刊行されて以降である[28][29]
^ 前編は古語雅語、中編は雅語、後編は方言俗語を収める[30]。なお、刊行は前編が1777年に出たにもかかわらず、後編の完結は1887年のことである。
^ 大槻文彦は、その原因を「議論にのみ日を費やしたせいだ」とする[39]
^ この他にもヘボンの『和英語林集成』や[42]、谷川士清『和訓栞』などの近世辞書からの影響も指摘されている[43][44]
^ この間の1885年には近藤真琴編『ことばのその』、1888年?1889年には高橋五郎編『和漢雅俗いろは辞典』、1888年には物集高見編『ことばのはやし』と高橋五郎編『漢英対照いろは辞典』が刊行されている[46]
^ その悲嘆のうちに本書を刊行したことが『言海』末尾の「ことばのうみ の おくがき」で述べられている[41]
^ ほぼ松井簡治の独力によって成り、上田万年は名目上の共著者であったと考えられている。『世界大百科事典』「大日本国語辞典」項(林大執筆)は「上田万年・松井簡治共著(実際は松井著)」と注記する[要出典]。松井は修訂版の序「修訂版及び增補卷の刊行に就いて」で、上田が多忙であったため「殆ど一回の?覽をも請ふことが出來なかつた」と書き、上田は版元との交渉の斡旋に当たったと続ける[52][53][54]。松井の没後、長男・驥(き)は修訂新装版の「あとがき」に「故上田萬年博士との共著といふことで、やうやく兩出版社の引受けを得たものであつたらしい」と記す。
^ 膨大になったのは固有名詞や動植物名を多く採録したからである[65]
^ 初版は金田一編、改訂版は金田一監修。実際は見坊豪紀のほぼ独力による[68]
^ 『日本辞書辞典』は「現代語本位の本格的な国語辞典の創始というべきもの」と評する[69]
^ 増井元によると、岩淵悦太郎が「解説文がすぐれ、例文が適切である」と高く評価していたという[73]
^ 判型は少し大きめ。
^ 例えば「右」の語釈に「この辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う」とあるのは秀逸とされる[77]
^ たとえば助詞「が」の説明だけで1ページ以上ある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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