国語辞典
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直上のカタカナの母音に相当する音が続いているものとみて扱うもの(例・アート【art】を「アアト」の位置に配置)[注 3]

長音符を見出し語の配列には関係ないものとして扱うもの(例・アート【art】を「アト」の位置に配置)[注 2]


複合語についても国語辞典により異なる。

親項目に続けて配置するもの(例・「こくごきょういく【国語教育】」や「こくごしんぎかい【国語審議会】」を「こくご【国語】」の子項目としてその中に配置)。

完全に独立項目とするもの(例・「こくごきょういく【国語教育】」や「こくごしんぎかい【国語審議会】」を「こくご【国語】」とは別項目として配置)。


同音の場合の配列についても国語辞典により異なる。

歴史「日本語#辞書」および「日本語学#歴史」も参照
近代以前

日本書紀」によれば、日本人が手掛けた最初の辞書682年天武天皇11年)に完成した『新字』といわれる[注 4]。その内容は伝わっていないため真偽は不明であるが、現存する木簡に字書らしき記載が確認できることから[15]、少なくとも天武朝において辞書編纂が行われた可能性はある[16]

日本で作られた現存最古の辞書は、空海の編纂になる『篆隷万象名義』(承和2年・835年以前成立)である[17][18]。これは漢字に簡潔な漢文注を付しており、高山寺に唯一の古写本が伝わっている[19]和語(和訓)が載ったものとしては、『新撰字鏡』(寛平4年 - 昌泰3年・892年 - 900年)、『和名類聚抄』(承平4年・934年)、『類聚名義抄』(11世紀末 - 12世紀頃)、『色葉字類抄[注 5]といった辞書が編まれた[21]。ただし、これらは厳密には漢籍を読むための漢和辞典もしくは漢字・漢語を知るための “和漢辞典” であると考えるべきで、現在の国語辞典の概念からは遠い。

15世紀になると、日常で接する単語をいろは順に並べた書物「節用集」が広まった。漢字熟語を多数掲出して、それに読み仮名をつけただけのもので、もとより意味などの記述はないが、日常の文章を書くためには十分であった[22]。「節用集」の写本は多く現存し、文明本(文明6年・1474年頃成立)、黒本本、饅頭屋本、前田本、易林本などが知られる[22]。「節用集」は江戸時代にますます広く利用され、明治以降も継続して刊行されたが、次第に役割を近代国語辞典に譲った[23]

近世には、貝原好古が1688年に中国の『爾雅』に倣った『和爾雅』を出版した。18世紀には石川雅望『雅言集覧』、太田全斎『俚言集覧』、谷川士清『和訓栞』といった辞書が出た[注 6]。『雅言集覧』は和歌や擬古文の作成において規範となる「雅語」を集めたもので、いわば古語辞典であるが、用例の出典および流布本の丁数を記しているので、古語研究に欠かすことのできないものとなっている[27]。『俚言集覧』は当時の俗語に焦点を当てたもので、今日の国語辞典の概念により近く、語をアカサタナ順に並べ、たまに出典や説明を付している[注 7]。『和訓栞』は、見出し語の下に語釈・用例をかなり細かく示している[注 8]
「言海」から第二次世界大戦まで

「近代国語辞典の始まり」は『言海』であると一般に認められている[31][32][33][34][35]。もっとも、その前段があった。

文部省編輯寮では『語彙』という辞書の編集が進められた[36]。ところが、1871年に「あ」の部[37]が成立した後、1884年に「え」の部[38]まで出たところで頓挫した[注 9]。こうした『語彙』の失敗に鑑みて、文部省の命により大槻文彦のほぼ独力によって編集が進められた[40][41]

大槻は『ウェブスター辞典』の簡易版を参照しながら[注 10]、辞書編纂の理念と方法として「発音」「語別」「語源」「語釈」「出典」の5種を絶対条件とした[40][41][45]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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