国語学
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^ 『天仁遠波十三ヶ条口伝』『姉小路家手似葉伝』『出葉抄』『秘伝天爾波抄』など様々な名称で伝わっている[45]
^ アクセントの高低による「を」と「お」の使い分けは、すでに『類聚名義抄』や『色葉字類抄』などにも見られる[50]
^ ほとんどが思い付き程度の恣意的なものとされるが[63]、近世初期の言語生活などを知り得る資料とされる[64]
^ 村田春海清水浜臣『古言梯再考増補標註』にある「古言梯のいて来しをり竟宴の哥」に「古言のかけはしとふふみあつめをへたる日よめる」という魚彦の詞書があることから、実際の書名は「ふることのかけはし」の可能性がある[77]
^ 藤重匹龍『掌中古言梯』、村田春海・清水浜臣『古言梯再考増補標註』、山田常典『増補古言梯標註』などがある[78]。これらのほかにも、市岡猛彦『雅言仮字格』、鶴峯戊申『増補正誤仮名遣』、村田春海『仮字拾要』などがある[79][80]
^ 例えば主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける[86]」「にほひの袖にとまれる[87]」のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示した[85]
^ 成章は皆川淇園と共に漢学を修め、国学に転じた後も兄の漢学に対しては深い理解を示したという[90]
^ 御杖の言説は、近代において土田杏村が高く評価して以降、改めて注目されるようになっていった[93][94]
^ 前編は1777年、中編は1862年に刊行されたが、後編は明治になって刊行された[104]
^ 写本で伝えられて版本の形にならなかった上に、容易に目にすることが可能になるのは、明治に『増補俚言集覧』(1899年?1900年)として刊行されてからである[105]
^ 版本の形になったのは「い」?「な」の語彙で、全体像を確認することが可能になるのは、1887年に『増補雅言集覧』(1903年版もある)が刊行されてからである[106]
^ 以上が「近世期の三大辞書」といわれる[107]。これらに『鸚鵡抄』を加えて「四大辞書」といわれることもあるが、『鸚鵡抄』は未刊行であったことを理由に、流布や影響といった側面から除外される[108]
^ 今日でいう「未然形」のことで、義門と同時期に富樫広蔭は「未然段」と呼んでいた[117]
^ 今日でいう「終止形」のことで、当時は他にも富樫広蔭の「断止段」や鈴木重胤の「絶定言」などがあった[118]。なお、「終止」を活用形の名称として初めて用いたのは、黒川真頼の可能性が高いとされる[118][119]
^ 今日でいう「命令形」のことで、『活語雑話』に宣長の『漢字三音考』を参考にした旨が記されていることから、その記述を加味した結果と推察される[120]
^ これは中世の「体」「用」「てにをは」以来の伝統を継承するものである[122]
^ 『古事記』や『日本書紀』などのほか、『和名類聚抄』や『倭訓栞』などの辞書類、さらには『先代旧事本紀』が利用されている[129]
^ 今日におけるヘボン式は、羅馬字会が提案した綴りを下敷きに修正を施したもので[133]、『和英語林集成』第3版(1886年)において確定させた[134]
^ 例えば「国語学史の最初の刊行書」として注目される保科孝一 (1899)は、「科学的研究が微々として振るわなかったこと」「研究材料の範囲が極端に狭かったこと」「学者の自尊心が強いゆえに比較研究をしなかったこと」を理由にしている[139]。こうした考え方に対しては、時枝誠記のほかに[140]、山田孝雄などが批判している[141]
^ 大槻は黒川真頼の『詞の栞』の講義にたびたび列席していた[142]。真頼の文法学説には、義門が春庭の説を展開して著した『詞の道しるべ』(1810年)の受容が指摘されている[143]
^ 中途で打ち切られたのは、編集母胎である大学が廃止されたことに加え、文部省内で「見出し語の配列が徹底していない上に品詞表示がない」「位相の指示や語種の区別が不十分」「漢語が偏っている上に洋語が少なすぎる」「語源記述がほとんどない」「俗語に対する意識が低い」「使用の手引きが見られない」といった体裁が問題視されたことが、原因として挙げられる[147]
^ 『言海』が刊行されるまでには、近藤真琴の『ことばのその』(1885年)、物集高見の『ことばのはやし』(1888年)、高橋五郎の『漢英対照いろは辞典』(1888年)と『和漢雅俗いろは辞典』(1888年?1889年)が刊行されているが、いずれも雅語に徹している[148][149]。また、『言海』刊行後、山田美妙が『日本大辞書』(1892年?1893年)を著したが、アクセントを付した口語体の辞書として歴史的意義がある一方で、全体的に尻窄まりとなってしまっている[150]。こうした点からも『言海』は評価されている。
^ 監修者として重野安繹三島毅服部宇之吉の名前があるが、実質的な編集は三省堂編修所齋藤精輔が中心となり、読売新聞社にいた同郷の足助直次郎を招き入れ、深井鑑一郎や福田重政と一緒にあたらせたという[153]
^ 例えば『口語法調査報告書』は、東条操が「方言区画論」を提唱する契機となった[164]
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