国語学
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注釈^ 「教科名が「国語」である」という事情もあるが、前者は主に「日本語が第一言語」という前提での教育、後者は主に「非日本語話者に対する第二言語教育」という前提での教育で、実際の内容も大きく異なる[要出典]。
^民俗学」と「文化人類学」など、第三者からの視点では同様な学術分野であっても、研究者自身と対象との距離の違いにより学術的にも違ってくる[要出典]。
^ この他に「日本語研究史[7]」(または「国語研究史[8]」)や「日本語学説史[9]」といった呼称もある。ここでは一般的な名称として使われる「日本語学史」を用いた。
^ 限定を加えずに広く日本語研究の歴史として捉えると、その対象範囲は日本思想にも及ぶことになり、研究史思想史との境界が希薄なものとなりかねないため、「言語学的観点から一定の評価や判断が可能なもの」を対象として扱うなどの限定を設ける必要性が生じる[10]。こうした点については、飯田晴巳 (1998)山東功 (2015)が詳しい。
^ 分野によっては訓点資料や抄物のように、若い世代への継承が急務な場合があるほか、中世の辞書や近世語資料のように研究対象が膨大であるために、その全体像の把握のためにさらなる研究者の養成が必要な場合もある[13]
^ 一般に「ヲコト点」と呼ばれるが、これは江戸時代以後の呼称であり、院政時代には「テニハ点」といわれ、それ以前は単に「点」とだけ呼ばれていた[17]
^ いつ頃から手本として使用され始めたのかについては不明な点が多いが、斎宮跡11世紀末から12世紀初頭と考えられる「いろは」の書かれた土器が出土しているほか、12世紀半ば以降の同様の土器も全国各地で出土していることから、「いろは」が出来て間もない頃とされる[19]。なお、2020年時点で全文が確認できる土器としては、堀河院跡に出土した12世紀末から13世紀初頭の土器が最古である[20]
^日本書紀』巻第29(天武天皇11年3月13日条)に「肇めて新字一部四十四巻を造らしむ」とある[21]。この記事が仮に史実でないとしても、天武朝において辞書編纂が行われた可能性はある[22]
^ 鎌倉初期に増補して十巻本としたものは『伊呂波字類抄』と呼ばれる[31]
^ ほぼ現在に近い配列が定着したのは「室町時代以後」とされる[要出典]。
^ 『天仁遠波十三ヶ条口伝』『姉小路家手似葉伝』『出葉抄』『秘伝天爾波抄』など様々な名称で伝わっている[45]
^ アクセントの高低による「を」と「お」の使い分けは、すでに『類聚名義抄』や『色葉字類抄』などにも見られる[50]
^ ほとんどが思い付き程度の恣意的なものとされるが[63]、近世初期の言語生活などを知り得る資料とされる[64]
^ 村田春海清水浜臣『古言梯再考増補標註』にある「古言梯のいて来しをり竟宴の哥」に「古言のかけはしとふふみあつめをへたる日よめる」という魚彦の詞書があることから、実際の書名は「ふることのかけはし」の可能性がある[77]
^ 藤重匹龍『掌中古言梯』、村田春海・清水浜臣『古言梯再考増補標註』、山田常典『増補古言梯標註』などがある[78]。これらのほかにも、市岡猛彦『雅言仮字格』、鶴峯戊申『増補正誤仮名遣』、村田春海『仮字拾要』などがある[79][80]
^ 例えば主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける[86]」「にほひの袖にとまれる[87]」のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示した[85]
^ 成章は皆川淇園と共に漢学を修め、国学に転じた後も兄の漢学に対しては深い理解を示したという[90]
^ 御杖の言説は、近代において土田杏村が高く評価して以降、改めて注目されるようになっていった[93][94]
^ 前編は1777年、中編は1862年に刊行されたが、後編は明治になって刊行された[104]
^ 写本で伝えられて版本の形にならなかった上に、容易に目にすることが可能になるのは、明治に『増補俚言集覧』(1899年?1900年)として刊行されてからである[105]
^ 版本の形になったのは「い」?「な」の語彙で、全体像を確認することが可能になるのは、1887年に『増補雅言集覧』(1903年版もある)が刊行されてからである[106]
^ 以上が「近世期の三大辞書」といわれる[107]。これらに『鸚鵡抄』を加えて「四大辞書」といわれることもあるが、『鸚鵡抄』は未刊行であったことを理由に、流布や影響といった側面から除外される[108]
^ 今日でいう「未然形」のことで、義門と同時期に富樫広蔭は「未然段」と呼んでいた[117]
^ 今日でいう「終止形」のことで、当時は他にも富樫広蔭の「断止段」や鈴木重胤の「絶定言」などがあった[118]。なお、「終止」を活用形の名称として初めて用いたのは、黒川真頼の可能性が高いとされる[118][119]
^ 今日でいう「命令形」のことで、『活語雑話』に宣長の『漢字三音考』を参考にした旨が記されていることから、その記述を加味した結果と推察される[120]
^ これは中世の「体」「用」「てにをは」以来の伝統を継承するものである[122]
^ 『古事記』や『日本書紀』などのほか、『和名類聚抄』や『倭訓栞』などの辞書類、さらには『先代旧事本紀』が利用されている[129]
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