国衙
[Wikipedia|▼Menu]
1984年に総社本町の姫路郵便局の庁舎増築に伴う発掘調査によって、大型の掘立柱建物群と瓦葺建物の存在、およびそれらの計画的な配置が明らかとなった。「播磨国府系瓦」が大量に出土している(本町遺跡)[5]2017年にはその東にある平野町にて奈良時代のものとみられる大量の瓦や建物の柱跡が見つかり、うち軒平瓦には播磨国府系瓦と酷似する唐草文様が刻まれている。
美作国府跡
岡山県津山市に所在。1970年(昭和45年)中国縦貫道の建設に伴う発掘調査で検出された。1986年(昭和61年)から7次に及ぶ調査で分かるようになってきた。第1期が7世紀後半から8世紀初頭までで、美作国成立以前に属する。郡庁遺構と同じく口の字形遺構配置に似ているので、苫田(とまだ)郡庁のものとみられている。
因幡国庁跡
鳥取県鳥取市国府町大字中郷・安田に所在し、鳥取市の東方約10キロメートルほどの所にある。山陰道の西端に位置する。1977年(昭和52年)の発掘調査で、国庁の中心部・それに近い建物郡が発見された。遺構は東西150メートルの間に、10軒あまりの掘立柱建物・二条の柵・二基の井戸・数本の道路と溝などが存在した。中心的掘立柱建物は桁行き5間×梁間4間で南北の両面に庇を付け、その後方に桁行き5間×梁行き2間の切り妻型の二軒である[注 1]。これらの中心的建物の南側約75メートルの地点に、中世の桁行き7間×梁間3間以上の東西棟の掘立柱建物が検出されている。遺物としては硯・木簡・墨書土器・緑?陶器などの国庁を象徴するものが多数出土している[6]
伯耆国庁跡
鳥取県倉吉市国府・国分寺に所在する。1973年(昭和48年)から1978年(昭和53年)の間に6次にわたって発掘調査が実施された。その結果伯耆の国府で国衙跡のほぼ全体が発掘調査で検出されるという大きな成果があった。国庁の東側に国分寺と国分尼寺があった。国庁は、幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって区画された外郭(曹司[ぞうし]地区)とその中央部に内郭(国衙政庁地区)からなり、外郭域は東西273メートル、南北227メートルの長方形で、東辺に東西51メートル、南北245メートルの張り出し部が付く。遺跡は8世紀中頃から10世紀の間のもので、大きく分けて4時期の変遷がみられる[7]
出雲国府跡
島根県松江市大草町の六所神社周辺だとされている。1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)の発掘調査で、多数の掘立柱建物跡・石敷遺構・溝状遺構、木簡[注 2]・墨書土器[注 3]、大量の食器類・硯・重さを量る分銅・銀貨の和同開珎・軒瓦・玉づくりをする原石・玉類・砥石(といし)などが出土している。国庁外郭は、幅3メートルの大溝で区画している。推定復元すると一辺167メートル四方を大溝で区画し、その南半分に南北96メートル、東西72メートルの政庁区画を造り、その中に正殿・東西脇殿などを配置したと考えられている。北半分も溝で区切り、官衙建物を配置したと推定されている。周辺地区で現在水田になっているところは条里制のあとがよく残っている[8]。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁の最も古い例の一つだとされている。また、1999年度(平成11年度)からも発掘調査が行われている。
備後国府跡
広島県府中市に所在。国史跡。
周防国衙跡
山口県防府市内に古くから土居八町[注 4]とよばれる地域にあり、現在でもそこには国衙や国庁などの小字名がみられる。国府地域には条坊制の跡が見られ、そのほぼ中央北寄りに2町四方の国衙があり、その周りは幅約3メートルの土壇をもつ築地が巡らされ、築地には東西南北の4門があった。国衙域中央を南北に「朱雀大路」が走り、東南部に港湾施設があったと思われる「船所」の字名が存在する。1961年(昭和36年)から1964年(昭和39年)を第1次として発掘調査が行われ、国府には、東西215メートル、南北850メートルに国庁が置かれている。国府域内に都での朱雀大路にあたる大路が南北に通じており、朱雀という小字名も残っている。昔の国府の様子が分かる典型として有名である。1937年(昭和12年)史跡に指定された。国衙跡としては最も早い史跡指定である[9]
阿波国府跡
徳島県徳島市国府町付近にある。発掘調査はすでに30回以上実施されている。7世紀前半代に溯る可能性がある。初期段階の国府中心地域(観音寺地区)から多量の木簡などが出土している。観音寺地域の北側にある敷地遺跡と反対側の南側にあるせんだんの木地区で国衙関連の建物跡が発見されている。敷地遺跡からは10棟からなる建物郡と柵や井戸が見つかっている。8世紀前半代に建てられた4棟と9世紀前半代に建てられた6棟が検出されている。コの字状に建てられている。
讃岐国府跡
香川県坂出市に所在。国史跡。
土佐国衙跡
高知県南国市に所在。国史跡。
筑後国府跡
福岡県久留米市に所在。国史跡。
豊前国府跡
福岡県指定史跡。
肥前国庁跡
佐賀県佐賀市嘉瀬川左岸の惣座集落の南300メートルのところにある惣座遺跡である。東西77.2メートル、南北104.5メートルの築地が廻り、内側に整然と並んだ建物郡が見つかっている。正殿はほぼ中央に2間×7間(6.6×20.8メートル)で、単廊形式の回廊がついている。前殿は2間×7間(5.4×20.86メートル)、後殿は2間×7間(5.4×20.86メートル)正殿より若干小さい。正殿・前殿の南側に南北方向に二棟ずつ並ぶ脇殿がある。南門は2間×3間の八脚門の形式を保っている。この政庁跡の建物配置は、大宰府と同じである。
日向国府跡
宮崎県西都市に所在。国史跡。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ なお、遺構の年代は出土した木簡の「仁和二年假文」(886年)の墨書から平安時代初期以降と考えられている。
^ 「大原評□部□□」(評は出雲国庁の建設が大宝元年(701年)以前に溯ることを示唆している。)「進上兵士財□…」「□□二百代」(大は土地の単位)
^ 「厨」(くりや)「酒杯」「少目」(しょうさかん)、「門」「社辺」(こそべ)などの篦書き土器
^ 八町四方は約870メートル四方

出典^ a bきらり府中 武蔵国府跡?国衙地区? 更新日:2017年1月1日
^ 鐘江宏之「行政体としての国府」『律令制諸国支配の成立と展開』(吉川弘文館、2023年) ISBN 978-4-642-04672-5 P84-89.
^ “国史跡 武蔵国府跡”. 府中市 (2009年9月18日). 2012年1月14日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2011年8月3日閲覧。
^ 府中市 武蔵国府関連遺跡 JR府中本町駅前発掘調査 更新日:2010年6月3日 武蔵国府関連遺跡
^ “本町遺跡”. 姫路市埋蔵文化財センター. 2023年11月1日閲覧。
^ 加藤隆昭「因幡国庁跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 81?82ページ
^ 真田廣幸「伯耆国庁跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 83?85ページ
^ 勝部昭「出雲国府跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 86?88ページ
^ 渡辺一雄「周防国衙跡」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 89?90ページ

関連項目

律令制

国府

国司

国郡里制

郡衙

郡#日本の郡

受領

在庁官人

守護

古代日本の地方官制

典拠管理データベース: 国立図書館

日本


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef