国立霞ヶ丘競技場陸上競技場
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過去の大会では、1960年ローマオリンピックのメインスタジアムであったスタディオ・オリンピコや、1936年ベルリンオリンピックのメインスタジアムであったオリンピアシュタディオンのように、改装により屋根を架けた例もあるが、予算等の問題から改装はおこなわれなかった。ワールドカップ日韓大会の決勝戦は横浜国際総合競技場(日産スタジアム)で実施され、それ以降も大規模なサッカーの試合は、より観客収容人数が多く興行収入が見込める横浜国際総合競技場もしくは埼玉スタジアム2002で開催する事が多くなった[14]FIFAワールドカップのアジア地区予選も、1997年フランス大会予選を最後に行われなくなった。

陸上競技の会場としても、走行レーンが8レーンしかないことやサブトラックが400mトラックでないために、国際陸上競技連盟の規格を満たさなくなってしまった。トラックを使用したマラソン以外の国際陸上競技大会としては、1999年(平成11年)にスーパー陸上が行われてから、2013年(平成25年)にゴールデングランプリ東京[注 4] が開催されるまで久しく行われなかった。2013年(平成25年)の東京国体において、国立霞ヶ丘陸上競技場は計画段階で競技会場に含まれなかった[15]

独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われており、また2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められている。

2005年(平成17年)に単独のアーティストとしては初めてSMAPがコンサートに使用したが、この際には打診してから使用許可を得るまでに5年の期間を要した。その理由として、騒音問題、芝生などの施設管理といった競技場側の問題の他に、SMAPの公演内容、スタッフの対応、観客のマナーの様子等、総合的に厳しくチェックされ、5年間事故も無く、観客のマナーも問題が無いことが認められるまでに非常に慎重な審査を重ねた[16]

2007年(平成19年)9月にDREAMS COME TRUEが使用に関する審査をパスしてコンサートを行い、2008年(平成20年)9月には3組目となる、2012年(平成24年)5月には、史上4組目(ロックバンドとしては史上初)としてL'Arc?en?Cielのコンサートが開催されている。2日間で最多人数の16万人の動員数を記録した。また、1日で8万人も最多の動員数である。さらに2014年(平成26年)3月には5組目として、女性グループとしては初めてももいろクローバーZがライブを開催し、2日で11万人を動員した[17]

2010年(平成22年)の嵐の公演では、会場外で演奏を聞くために集まった多数のファンに対して近隣住民から苦情が出たと報道された[18]。また2014年(平成26年)にはポール・マッカートニーが日本国外のロック歌手単独で初(かつ、現競技場唯一)となるコンサートが予定されていたが、体調不良のため延期代替の分を含めた公演を中止している。

コンサート以外のイベントとしては、2009年(平成21年)7月5日石原裕次郎23回忌法要が開催された。1999年(平成11年)に石原の菩提寺である神奈川県横浜市總持寺で営まれた13回忌法要に大勢のファンが詰め掛け、寺院周辺が大混雑したため、死没地である慶應義塾大学病院に程近い国立霞ヶ丘陸上競技場を利用することになった。この法要では、トラック部分に總持寺の本堂を模した仮設の建物を用意し、主催した石原プロモーションの発表では約11万7000人のファンが訪れた[19]

2011年(平成23年)3月11日東日本大震災では、照明灯の損傷や通路の壁が一部で落ちるなどの被害があったという。ちょうど初となる本格的な耐震改修(「一部改修及び安全対策その他工事」[20])を仕上げていた時期(矢ヶ崎総合計画の矢ヶ崎彰らによる[21])だった[22]。また、この年までの工事でバックスタンドが増席された[23][24]

2012年(平成24年)には、ゴールドカラーと赤を用いた国立競技場のロゴタイプが新たに作成された。[25][26]。この年の震災補修工事では、民主党政権・野田佳彦内閣(当時の文科相は平野博文)の第3次補正予算における東日本大震災復興予算からの流用疑惑が問題視された[27]

2014年5月31日、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」のピッチ開放をもって閉場となった。このファイナルイベントの一部は、TBSで生中継された。
景観保護の歴史

高さ制限や景観保護が行われてきた歴史がある。

幻に終わった1940年(昭和15年)の東京オリンピック。メイン会場の候補としては、代々木練兵場[28] や千駄ヶ谷の民有地取得案が頓挫(他に月島の埋立地案もあった[29])。そして、1937年(昭和12年)の小委員会で、当初の計画でもあった(国立競技場の敷地に存在した)明治神宮外苑競技場の改築案で行くことが確認された[30][31]

しかし、建築家の岸田日出刀は、ベルリン視察後、神宮外苑はオリンピック会場の敷地としては狭すぎると気づき、12万人収容への改造となる巨大スタジアムの建設に反対を表明。外苑の風紀、風致(景観)を害するとも訴えた[32][33][34]

岸田の他、内務省神社局の反対もあり1938年(昭和12年)4月、建設場所を駒沢にあった駒澤ゴルフ場[35]跡地(現在の駒沢オリンピック公園)へ変更することが決まった。しかし、日中戦争の戦局悪化により、同年7月にオリンピックの返上が決定。スタジアム建設も中止となった[36]

戦後、1958年(昭和33年)の国立競技場の建設の際には、神宮外苑の聖徳記念絵画館(約17m)側からの景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さは7m91cmに抑えた[37][38]。明治神宮外苑部の児玉九一らとの話し合いの結果で、神宮球場外野スタンドの8m60cmを参考としたものだった[39]

1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、メインスタジアムとして使用するためにバックスタンドを増設。


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