国王至上法
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教皇は判決を認めずヘンリー8世を破門したが、イングランドからの離反は止められなかった(9月にアンはエリザベスを出産)[4][7][8]
国王至上法の制定

1534年11月、宗教改革議会の第六会期において、イングランド国王を「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」と宣言する国王至上法が定められた。また、公職や教会の役職に就く者には、国王が王国や国教会の最高統治者であることを宣誓を行うことが義務化され(至上権承認の宣誓)、これを否定する者を大逆罪にかける反逆法も成立した。しかし、教義内容はカトリックのものとほとんど変わらなかった[4][7][9]

なお、この国王至上法が制定される前に聖職者の服従を立法化した聖職者服従法が制定、加えて王位継承法(第一継承法)も定められ、王とアンとの間の子が正統な王位継承権を持つことが確認された。第一継承法に対する宣誓を拒否したのがトマス・モアジョン・フィッシャーで、このことで2人は裁判にかけられ、1535年に刑死することになる[4][10]
その後の展開

イングランド国教会の成立により、カトリックからの分離独立が確定した。その後、ヘンリー8世が1536年から1539年まで修道院解散を行い、解散に反対する反乱(恩寵の巡礼)に遭ったが鎮圧して修道院解散も完了、修道院の土地・財産を没収し、ジェントリなどへ安く分与したことで、王室の財源を潤して王権の強化をもたらすこととなった[11]。また当時、人口が飽和状態となっていたロンドンでは、この教会・修道院の土地没収がさらなる都市開発の契機にもなった。

国王至上法の制定は、イングランドにおける宗教改革の重要な契機でありながらも、極めて政治的性格の強いものであった。そのため、教義内容をめぐる議論、そもそもの国教会の正統性などについては、エドワード6世メアリー1世、エリザベス1世の時代に至るまで問題となった。
脚注^ a b 国王至上法 こくおうしじょうほうActs of SupremacyKotobank
^ 塚田、P156 - P157、川北、P144 - P145、松村、P624、陶山、P156 - P158。
^ 松村、P624 - P625、陶山、P158 - P159。
^ a b c d 松村、P625。
^ 今井、P36 - P38、塚田、P160、陶山、P159 - P164、P179。
^ a b 上訴禁止法 じょうそきんしほうKotobank
^ a b 川北、P145。
^ 今井、P38 - P39、塚田、P160 - P163、陶山、P173 - P179。
^ 今井、P39 - P40、塚田、P163 - P164、松村、P729、P757 - P758、陶山、P179 - P180、P182 - P183。
^ 今井、P39 - P41、塚田、P164、陶山、P187 - P189。
^ 今井、P42 - P44、塚田、P164 - P165、川北、P145 - P148、陶山、P200 - P209。

参考文献

今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。

塚田富治『政治家の誕生 近代イギリスをつくった人々』講談社講談社現代新書1206)、1994年。

柏野健三『社会政策の歴史と理論 改訂増補版』ふくろう出版、1997年。

川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年。

松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。

陶山昇平『ヘンリー八世 暴君か、カリスマか』晶文社、2021年。

関連項目

イングランド国教会

宗教改革

外部リンク

神聖ローマ帝国大使の見たヘンリー八世の離婚問題高梨久美子、お茶の水史学、2005

典拠管理データベース: 国立図書館

イスラエル

アメリカ


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