国王大権_(イギリス)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

国王大権を定義する試みの初期のものとしては、1387年のリチャード2世による判決がある[5][6]

16世紀中にこの「騒乱」は後退し始め、君主は真に独立となった。ヘンリー8世およびその後継者の下で、王はイングランド国教会の首長であり、したがって、聖界に対して責任を負わなかった。しかしながら、この時代における議会の台頭は問題を含むものであった。君主は「イングランド憲法における優越的パートナー」であったものの、裁判所は、議会の果たした役割を認め、王を全能と宣言しなくなった[4]。フェラーズ事件(Ferrer's Case)においては[7]、ヘンリー8世はこれを認め、議会の承認があればこれがないよりも自身ははるかに強力であることを示した。このことが明確なのは何と言っても課税関係であった。トーマス・スミスなどのこの時代の著述家は、君主は議会の承認なしには課税し得ないと指摘する[8]

同時に、ヘンリー8世とその後継者は通常は裁判所の意思に従った。理論的には彼らは裁判官に拘束されなかったにもかかわらずである。ウィリアム・ホールズワースの推論によれば、国王法務官や裁判所に対して常日頃から法的な助言と承認を求める中で、ヘンリー8世は法に従うことによる安定的な統治の必要性を認めたのである。ホールズワースの主張によれば、法は全ての中で最高であるとの見解は、「テューダー期における指導的な法律家および政治家ならびに時事評論家全ての見解であった」[9]。当時の一般的見解によれば、王は「拘束のない裁量」を有するが、大権の行使について裁判所が条件を課した分野においては、または王がそのように選んだ場合には、制限を受けるのである[10]

この安定状態が最初に揺らいだのは1607年、禁止事件(Case of Prohibitions)であった。ジェームズ6世・1世が、君主たる自身は、裁判官となってコモン・ローを自ら適当と考えるものに解する神聖な権利を有すると主張したのである。エドワード・コーク率いる裁判所はこの考えを否定し、君主はいかなる個人にも服しないが法には服する、と述べた。王が十分な法知識を得るまでは、王はこれを解する権利を有しない。コークの指摘によれば、この知識は「その認識を獲得し得る前に、長い勉強と経験を要する…人為的理性の習得が求められる」。同様に、1611年の布告事件(Case of Proclamations)においても、コークは、君主は既に有する大権を行使し得るのみであり、新たなものは創設し得ない、とした[11]

名誉革命により、ジェームズ7世・2世に替わってメアリ2世とその夫ウィリアム3世が即位した。同時に、1689年権利章典が起草され、君主の議会への従属が確固たるものとされた。これは、国王大権を明確に制限しており、第1条は「議会の承認なく王権により法律又は法律の執行を猶予する権能は違法である」と規定し、第4条は「大権の口実による国王のためまたは国王の使用に供する金銭の賦課は、議会の許諾がなく、許諾されまたはされるべきよりも長期にわたり、または他の方法によるものは、違法である」と確認する。権利章典はさらに、議会は残る大権の利用を制限する権利を有することを確認したが、これは、1694年三年議会法が君主に対して一定の時期に議会を解散し招集することを求めたことによって実証された[12]

この後も国王は首相・大臣任免権、貴族創設権、議会解散権、条約締結権、宣戦布告権など重要な国王大権を温存したが、それらも慣習によって大臣の助言が必要とされるよう制限されていき、現在に至る[13]

しかし慣習はあくまで慣習でしかなく、制定法上では現在でも国王は個人裁量だけで様々な国王大権を行使できるはずである。たとえば議会を通過した法案を国王が裁可を拒否することについて制定法上の制約はない。しかしアン女王を最後に3世紀にわたってこの大権を行使した国王はおらず、そのため行使しないことが慣習となっている(この慣習がどのような場合にも絶対的であるかは議論が分かれる)[14]

現在では国王大権は慣習によりほぼ大臣によって決定されるため、国王大権は政府が持つ政治的権限を覆い隠す法的擬制になっている[15]。ただ19世紀以降は制定法で閣僚・官僚・公務員の権利・義務が明文化され始めたので、国内では政府の権能の法的根拠として国王大権が持ちだされることは減少傾向にある。対して外交面ではいまだ国王大権が法的根拠とされる事が多い[16]
国王大権に属する権能
立法ウィリアム4世は、大権を用いて専断的に議会を解散した最後の君主である。

歴史的には立法は枢密院における王が行う(枢密院勅令)ことが多かったが、徐々に議会における王に移った[17]

立法のうち、制定法の執行を停止することや間接税賦課を行うことは1688年権利章典により国王大権と認められていない[18]
法案の裁可

慣習により、君主は常に法案を裁可する。国王による法案裁可拒否は、アン女王が1707年にスコットランド民兵法案を拒否した事例を最後に行われていないが、これは直ちに拒否権が失われたことを意味するものではない[19]ジョージ5世の考えによれば、第3次アイルランド自治法案を拒否することができた。ジェニングスの著述によれば、「王はずっと、裁可を拒否するにつき法的権能だけでなく憲法上の権利を有すると考えていた」。[20]
勅令の制定

また立法のうち、勅令を制定する国王大権は、前述の1610年のコークの判例によって制限されている(国法上重大な犯罪を防止する場合を除いて、勅令によって新たな犯罪を創設することはできない)[16]
議会の解散・停会

議会を解散する国王大権は、2011年議会任期固定法によって一旦廃止された。その際においても、同法第6条第(1)項は、議会を停会する君主の権能は同法によって妨げられないことを特に言明していた[21]。2022年3月には議会解散・召集法が成立することで、議会任期固定法は廃止され、解散に関わる国王大権は「議会任期固定法の制定がなかったように」復活し、議会解散に関係する手続きは従来通りとなった。

議会の解散は君主が歴史的に有する大権の1つであるが、これは「おそらく君主により属人的に行使される最も重要な残余大権であり、最大の論争の可能性をはらむものである。」[22]と指摘されている。近年は、通常、議会及び首相の要請に応じて行使されていたが、これは首相の裁量による場合か、または不信任決議があった場合のいずれかであった。最後に君主が一方的に議会を解散したのは1835年であり、グレイ伯爵が首相を辞した際である。グレイ伯爵の内閣は完全に機能しており、彼なしでもなお存続可能であったが、ウィリアム4世は解散を強いることを選んだ。憲法学者の間では、これが近年においても可能であったかについて見解が分かれている。アイヴァー・ジェニングス(英語版)の著述によれば、解散は「大臣らの受諾」(the acquiescence of ministers)を伴うものであり、したがって、君主は大臣の承諾なくして議会を解散し得ない。「もし大臣らがかかる助言を行うことを拒めば、女王は彼らを解任する以上のことはできない。」しかしながら、A.V.ダイシーの考えによれば、ある極限的な状況においては、君主は独力で議会を解散し得る。その条件は、「当該議院の意見が選挙人の意見ではないと考える公正な理由がある事由が生じたこと」である。「立法府の望みが、国民の望みと異なるものであり、またはそのように公正に推定される場合であれば、解散は、許容され、または必要である。」[23]
行政
任官

首相・大臣・公務員・軍人・裁判官の任免権は国王大権である[24]

技術的には君主は任命したいと欲する者を首相に任命することができるが、実際に任命を受ける者は常に下院において過半数の支持を得る者である。通常、これは総選挙後に過半数の席を得た政党の党首である。困難が生じるのは、いわゆる「宙吊り議会」(ハング・パーラメント)である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef