国民革命軍
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この時の戦力比は国民革命軍200万に対して共産党軍は1万人程であった。しかし同年12月に西安事件が発生して友軍の張学良に監禁された?介石は、共産党軍との休戦と抗日統一戦線の結成を承諾した。

1937年、盧溝橋事件から日中戦争が始まると、第二次国共合作が成立して、共産党軍は華北の八路軍と華南の新四軍に再編制されて国民革命軍に組み込まれた。1938年に南京が陥落すると国民政府は重慶に退却した。日中両軍の泥沼の戦いが続く中で、毛沢東は農村から都市部にかけての民衆の支持層を増やして急速に共産勢力を拡大していた。1945年に日本軍が降伏すると国民革命軍から八路軍が分離して国共合作は破られ、1946年に国共内戦の火蓋が切られた。1947年に国民革命軍は中華民国国軍に改称した。この内戦では共産党側が優勢になり、敗退を重ねて広州まで追い詰められた?介石は、生き残った中華民国国軍部隊とともに台湾に転進し、政府を台北に移した。
組織
概要国民革命軍の騎兵隊北伐の時代、漢口の英国租界の中へ行進する国民革命軍兵士

国民革命軍はその存続した期間を通して370個の標準師団 (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の騎兵師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個の師団に、およそ430万人の正規兵を入隊させた。実際には多くの師団は複数の師団を統合するかたちで編成されたもので、すべてが同時に活動していたわけではない。また、新師団は戦争初期に失われた標準の師団に代わるものとして編成され、古い師団の番号が与えられた。ゆえにどの時代でも活動していた師団の数は前述の総数よりかなり少ない。記録によれば、1941年の中国では380万人の兵士がおり、246個の師団は最前線に、70個の師団が後方に配置されていた。

国民革命軍の師団は普通、5,000 - 6,000の兵からなったが、日本を含めた他国の師団なら10,000 - 15,000の兵を擁した。中独合作の下、ドイツ式の訓練を受けた師団は14,000の定員から成った[2]。国民党直属の部隊と地方軍閥や共産党軍から編入した部隊の間には装備・練度・規律に大きなばらつきがあった。

兵員の募集では、戸籍が整備されていなかったので恣意的な徴兵が行われ、町の溜まり場などで兵隊に適した男性を見つけると強制的に軍に入隊させるような人狩りが横行していたという。兵士への給与や食糧支給は不十分で、各兵士が武器を使って一般市民から金品を略奪することも頻発していた。兵士による一般市民の暴行も頻発しており、殺害もあったといわれる。兵士たちの士気と戦意は概ね低く、戦闘中の逃亡も多発しており、便衣行為もよく見られた。一方で広州や武漢などの都市で徴兵された部隊のモラルは高く、広西省出身の部隊は勇猛さで知られていた。戦闘では兵士を監視する為に頻繁に督戦隊が組織され、逃亡する兵士を射殺した。その他に兵士の逃亡を防ぐ為に、兵士が入ったトーチカに外から鍵を懸けたり、塹壕に鎖で兵士を繋ぎ止めることなども実行されたといわれる。そのため、西洋の軍事批評家の多くは国民革命軍が全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持った[3]
主力部隊ドイツ式装備をした国民革命軍

国民革命軍の主力部隊となったのは、ドイツ軍事顧問団によってドイツ式訓練と装備をした8個の師団であった。それらは第3師、第6師、第9師、第14師、第36師、第87師、第88師、予備師団である。その他にもドイツ式訓練をうけ、中国式装備をした12個の師団があった。

残りの師団は元軍閥に所属していたため、定員割れであり、概して訓練もされていなかった。約40個程度の国民革命軍の師団には欧州製の装備が配備された。

機械化部隊

国民革命軍は少数の装甲車両と機械化部隊を持っているだけだった。1937年の戦争開始の時点では機甲部隊(装甲部隊)は3つの機甲大隊で組織され、各国から入手した戦車装甲車を持っていた。これらの大隊の大部分が上海戦南京戦で破壊された後は、ソビエト連邦イタリア王国から入手した新しい戦車、装甲車およびトラックにより唯一の機甲師団である第200師の編成が可能になった。1938年6月の師団再編の後、この師団は結局機甲師団としては存続しなかった。

機甲連隊と火砲連隊は第五軍の直接の指揮下に置かれ、第200師は同じ軍の機械化歩兵師団になった。この軍は車両の損失と機械の故障のため装甲部隊を減らしながら1939年から1940年にかけては広西省桂南会戦1942年には雲南ミャンマーにおける会戦を戦った。ビルマの戦いの遅い時期、現地の国民革命軍はシャーマン戦車が配備された機甲大隊をひとつ持っていた。
編制単位

国民革命軍の編制単位と序列は、以下の通りである。戦区日中戦争が始まった1937年7月から設置され、当初は中国全土を5区に分けてそれぞれが複数の集団軍を管理した。1938年末以降は10区以上になった。兵力の多い戦区では兵団が設けられた。1944年末に設置された中国陸軍総司令部は戦区と同等であり、インドシナ華南方面でアメリカ陸軍イギリス陸軍と共同作戦するための組織だった。作戦上の基本単位は集團軍であり、戦術上の基本単位は軍であった。
国民政府軍事委員会

行営 -- 必要に応じて各地方に設置された軍事委員会の出先機関。1個以上の戦區を指導した。

戦區 -- 一定の作戦区域を受け持ち、複数の集團軍とその他を持った。

兵團 -- 兵力の多い戦區を分割指揮するために設置された。


集團軍 -- 2個以上の軍とその他を持った。戦時用の編制単位。1926?28年と1937?45年に存在。

路軍 -- 1個以上の軍とその他を持った。平時用の編制単位。1929?37年に存在。

方面軍 -- 北伐時の集團軍下のものは1926?28年に存在。2個以上の軍を指揮した。中国陸軍総司令部下のものは1944?45年に存在。

軍團 -- 1928年から存在。1928年は蒋介石直属の小型集團軍だった。1932年からは地方軍閥所属の軍を1個以上まとめた編制単位になった。


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