1926年4月15日に、南口に撤退した時点で軍を再編した。9個軍と2個騎兵集団を擁し、総兵力は約20万人[12]。
国民軍総司令兼西北辺防司令 張之江参謀長 曹浩森東路軍総司令 鹿鍾麟第1軍軍長兼前方総指揮 鄭金声第2軍軍長 方振武第4軍軍長 徐永昌第9軍軍長 王鎮淮西路軍総司令 宋哲元第5軍軍長 石敬亭第6軍軍長 石友三第8軍軍長 韓復騎兵第1集団総指揮 趙守ト騎兵第2集団総指揮 楊兆麟総予備隊総指揮 ?鴻遇駐甘司令 劉郁芬 当初は3個師を統轄し、1925年1月に6個師に増強。3個混成旅とあわせて約3万人[13]。 国民軍副総司令兼第2軍軍長 胡景翼第1師師長 胡景翼(代理 胡景銓 1925年4月10日、胡景翼が病没したため、岳維峻がその地位を後継した。同年夏、11個師・18個混成旅・2個騎兵旅・独立砲兵13個団・歩兵6個団・12個補充団・騎兵1個団とあわせて総兵力20万人にまで拡充している。しかし翌年3月、?雲鶚の第1軍、寇英傑の第2路軍、劉鎮華の陝甘軍との戦いに敗れて岳が捕虜とされ、国民軍第2軍は崩壊した[13]。 第2軍軍長 岳維峻第1師師長 胡景銓第2師師長 岳維峻第3師師長 田文潔第4師師長 陳文サ第5師師長 王為蔚第6師師長 樊鍾秀〔就任せず〕第7師師長 ケ瑜(ケ宝珊
国民軍第2軍
1924年10月 - 1925年3月
1925年4月 - 1926年9月
国民軍第2軍附属部隊毅軍
総司令 米振標建国豫軍総司令 樊鍾秀孫岳率いる中央陸軍第15混成旅を母体とした。当初は徐永昌、?炳勲の2個団のみの統轄であったが、国民軍結成後に拡充し、2個師、4個混成旅で構成される総兵力約7万人となった。1926年3月、第3軍は直魯聯軍に敗北し、また孫岳も病に倒れてしまう。残軍は徐永昌らが率いて第1軍と合流している[14]。 上述の通り、東北国民軍は郭松齢が東北陸軍第6師を改組して結成した軍である。5個軍、約7万人。郭敗死後の1926年1月、第5軍軍長魏益三が馮玉祥に合流し、国民軍第4軍と称された。しかし同年3月に国民軍が敗戦した際に、魏は国民軍を離れて「正義軍」を自称し、後に呉佩孚に投降した[15]。 上述の通り、方振武が直魯聯軍第24師を改組して結成したものである。元々は安徽派の参戦軍第2師として1919年1月に編成され、安直戦争後に張宗昌に接収・縮小されて第7旅、先遣第2梯隊を経て1925年(民国14年)秋、第24師に改編された[16]。ただし元々は1個師であるため、3個旅を統轄しているにすぎない。第1軍に合流して南口大戦などでも戦い、後に五原誓師にも加わった[5]。
国民軍副司令兼第3軍軍長 孫岳副軍長 葉?参謀長 劉汝賢中央暫編第4師師長 何遂第2師師長 葉?(後任に孫魁元)
東北国民軍(国民軍第4軍)
東北国民軍軍長 郭松齢参謀長 鄒作華第1軍軍長 劉振東第2軍軍長 劉偉第3軍軍長 范浦江第4軍軍長 霽雲第5軍軍長 魏益三
国民軍第5軍
第5軍軍長兼第1旅旅長 方振武参謀長 阮玄武[16]
脚注[脚注の使い方]
注釈^
第一条:北京に連合弁事処を設置する。
第二条:北京近畿には双方とも駐屯しない。
第三条:奉天軍は保定・大名地区を返還する。
第四条:京漢線は国民軍が維持し、津浦路は奉天軍が管轄する。
第五条:国民軍の海路による武器の輸入を奉天軍は妨害してはならない。
第六条:長江上遊は国民軍の勢力範囲、下遊は奉天軍の発展地とする。
第七条:中央政府は国民軍・奉天軍の双方を分担する。
第七条:中央政府は財政を国民軍・奉天軍双方に平等に配分する[3]。
出典^ a b c 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 上』403頁。
^ a b c d e 杉山 2012, p. 283.
^ a b ?学? (2011). ?作霖幕府与幕僚
^ 杉山 2012, p. 284.
^ a b c 郭同上、408頁。
^ “一代“福将”大?无?(?)