国民服制式特例
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なお、国民服と同様の主旨から女子の着用が推奨される服装として婦人標準服が1941年から研究され、1942年4月に決定された[5]が、国民服のように普及はせず、ほとんど着られなかった[3]
構成及び変遷大人用と子供用

被服協会による昭和15年5月5日発行の冊子「国民服(男子用)の手引」では、国民服は上衣中衣及びにより構成されるとし[6]、袴の形式については自由としていたが[7]、同年11月の国民服令では、これらに帽子外套手袋及びが加えられ、袴の制式が定められた(国民服令別表第1)。また、帽子外套も制式が定められたが、礼装時以外は適宜とされた。

上衣、袴及び礼装時の外套並びに帽子については「茶褐絨又ハ茶褐布(国防色)」と地質(素材や色)が定められたが、色調については軍服のように厳密なものは要求されなかった[8]。また、礼装時の手袋は白色とされた。
上衣

5月5日に発表された上衣には1号から4号の4種類があった。何れもシングルブレストの5個ボタンで、胸と腰に4つのポケットが付いていた[9]
1号(後の甲号)
襟は「立折襟開襟(小開)」となっており、詰襟と開襟の両方で着こなせた。サイドベンツで袵形と帯形が付き、ポケットは胸が縦型の日本風、腰はフラップ付きのパッチポケットとなっていた。
2号
袵形と帯形が無く、センターベンツで胸ポケットはフラップ付きウェルトポケットだった。
3号
背広型仕立てで襟は開襟専用。胸と腰に4つのフラップ付きウェルトポケットがあった。
4号(後の乙号)
3号と同様の仕立てで、襟が立折襟専用となっていた。

11月公布の国民服令では、甲号と乙号の2種類に整理された。甲号は1号のデザインがそのまま受け継がれ、乙号は4号のものが受け継がれた。ただし、乙号の襟は1号と同じ立折襟式開襟でも可とされ、この場合旧3号と4号の兼用とも言える。また、既に3号国民服を作成した者に対しては、襟を改造するだけで乙号国民服とすることが出来、この改造は容易である旨がアナウンスされた[10]。甲号は一般用として推奨されていたのに対し[11]、この頃には乙号(4号)が青少年の団服や制服として普及していたが、一般の使用も推奨されるとされた[10]
中衣

中衣のデザインは日本や縦型物入れ(ポケット)といった日本古来の服装の特長を生かしたもので[11]、国民服創定に於いて特に創意工夫されたとしている[7]ワイシャツカラー及びベストを兼ねた服で、ネクタイは不要。合服として単独でも着られた。上衣を開襟にした場合、下にワイシャツとネクタイを着用することが出来、実際にそのような着こなしをしていた者もいたが、これは国民服とは言えず(国民服令第6条)、好ましくないとされた[11]

上衣と同様に、5月5日に発表された中衣は1号から4号の4種類あったが、11月の国民服令で甲号と乙号の2種類に整理された[12]
1号(後の甲号)
形式は1号上衣に準じており、襟がラペルのない日本襟型となっていた。附襟と附袖をことが出来るとされており、腰帯と腰ポケットは自由とされていた。国民服令では甲号となった。この際、帯は分離式と規定され、礼装時には附襟をつけるものとされた。
2号
襟はラペルを付けることができた。両胸にフラップ付きのパッチポケットが付き、腰ポケットは自由とされていた。
3号(後の乙号)
和服合わせ襟形式。背帯を付けることができ、背中又は脇の縫い目にはボックス襞を付けることができた。ポケットは、左胸にウェルトポケット一個で、腰ポケットは自由とされた。国民服令で乙号となった。国民服令では、両腰にウェルトポケットが原則とされ、パッチポケットとすること又は付さないことができるとされた。
4号
立折襟の一般的なワイシャツ形式。
帽子

国民服令により新規に制定された帽子は、日本古来の烏帽子をイメージしたもので[10]、寒冷時には両側の折り返しを下ろすことにより耳を覆うことができるようになっていた。また、乙号着用の際は、陸軍の昭和13年制略帽(通称戦闘帽)型のものを使用することもできた。
戦争末期の特例

昭和18年勅令第499号「国民服制式特例」により、上衣、袴及び礼装用外套の地質に関する規定が緩和された(国民服制式特例第1条)。また、脚絆の着用が可となり(同3条)、その際に履く、裾をボタン留め出来るデザインの袴が加えられた(同4条)。そして、デザインがシンプルでより軍服(=同時期の九八、若しくは三式軍衣)に近い乙号を中心に製造されるようになっていった。
典拠法令

昭和十五年十一月一日
勅令第七百二十五號「国民服令」

昭和十八年六月十五日勅令第四百九十九號「国民服制式特例」

脚注^ 『東京日日新聞』(昭和13年4月13日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p149 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 日本ニュース第17号および日本ニュース第25号(NHK戦争証言アーカイブス)参照。
^ a b 井上
^ 衣料品に点数切符制、一家年に百点(昭和17年1月20日 大阪毎日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p124 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 週報287 p 12
^ 被服協会P 10
^ a b 被服協会P 12
^ 被服協会P 27
^ 被服協会P 13-16
^ a b c 写真週報142 P 13
^ a b c 写真週報142 P 12
^ 被服協会P 17-20

参考文献

被服協会『国民服(男子用)の手引』二木貞夫編集、被服協会、1940年。 

井上雅人『洋服と日本人 国民服というモード』廣済堂出版、2001年。 

太田臨一郎『日本服制史 下巻』(文化出版局、平成元年)、228-235ページ

情報局『週報第287号』内閣印刷局、1942年4月8日。 

内閣情報部『写真週報第142号』内閣印刷局、1940年11月13日。 

関連項目

婦人標準服


制服

人民服

戦時体制

もんぺ

軍服 (大日本帝国陸軍)

協和服(協和会服) - 満洲国協和会の公式服。国民服に似たデザインだが、協和服の方が先に考案された。

サイレンスーツ(英語版) - イギリスの首相ウィンストン・チャーチル発案の急な空襲時にも素早く着られ、避難所でも温かくすごせ、節度も守れるつなぎ

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